現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「ジョン・ケールと60年代のニューヨーク」


60年代から70年代の初め頃まではいつも何か新しい事がどこかにおきているという時代だった。街角にも何か新しい空気がただよっていた。このような感じは83年に久し振りにニューヨークを訪ねた時にはもうなかった。これはただ音楽やアートが面白かったという事ではなく、時代そのものが新しい空気を作っていた。第二次大戦争が終わり、50年代には生活が落ち着いてから60年代になって、人口も増え、大学や学校の数も増え、世界を見に旅に出る事も交通の手段が前よりも便利になった事と関係あると思う。アメリカやヨーロッパの郊外を初め、アジアやアフリカから人々がニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリンに行って、それまで本やラジオでしか聴いた事がなかった世界を求めた。また、ニューヨークやロンドンやパリに住んでいる人たちもアジアやアフリカの伝統芸術にそこの土地にずうっと住んでいた人たちさえもが忘れた魅力を再発見していった。新しい芸術は新しい出会いと共に始まる事が多い。1950年代の戦後の社会を立て直す時代が終わり、人々がもう一度どう生きるのが良いかを見つめ直す時代が来ていた。実験的な事が多く行なった時代だった。

僕の両親も1963年に最初にベルリンに行った。それからパリや南フランスに行って、スウェーデンに行った。そして1966年には母や母の家族と日本で数ヶ月母と過ごしてからニューヨークに行った。ベルリンにもニューヨークにも世界中からからいろんな音楽家、絵描き、写真家、舞踊家、役者、作家や映画監督が来ていた。何か新しい事がこれらの都市から起こりそうだった。 僕の父は彼の書いた本で最初ニューヨークに行って見たらメチャクチャな所だと思っていたと書いていた。しかし、いつもそうだが、彼が内心どう思っていたのかは彼から聞いた事がない。

同じ時代に英国のウエールズからニューヨークに行って、アメリカでギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスに作曲を学んで、後にミニマル・ミュージックの父と呼ばれているラ・モンテ・ヤングと実験音楽のグループを作ったり、ルー・リードと共にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを結成したジョン・ケールから彼のその時代の事を聴いた事がある。 『僕はウエールズの宗教的にとてもきびしいところの出なんだ。子供の頃は町の協会などでヴィオラを演奏して、ピアノを習って、作曲をはじめていた。それでも宗教のルールは厳しく守らなければいけなかった。"日曜日にラジオをかけるな""バッハなんだけど""だめだ!"(神が休みの日としている。)』そんなウエールズに居た15、16、17歳の頃ベッドにもぐり込み、カヴァーを幾つも重ねて音が漏れないようにして、"ヴォイス・オヴ・アメリカ"、"ラジオ・ルックセンブルグ"を聴いていた。ジョン・コルトレーンや新しいジャズなど初めて聴いた音楽が多かった。それを聴きながら外の世界にいつかきっと飛び出してやると思っていた。

僕の父親はウエールズのカーディフから来た人で石炭労働者だった。だが、彼は英語はを話さなかったが、僕の母と結婚した時、彼女の家族と一緒にウエールズ語を話す南ウエールスのガーモントに引っ越してきた。僕の母の母は家庭では英語を使うなと言ったので、彼は家で何も話せなくなった。僕は学校に行きだした七つまで英語を話せなかった。では父とはどうやってコミューニケーションを取れたのだろうか?それは多分音楽のようなコミューニケーションの取り方に違いないと僕は思っている。音楽は英語やウエールズ語も超える事が出来る。音楽で人とコミューニケーションを僕が取れるようになった事は僕にとっては他では得られない慰めになった。 僕の両親は音楽で僕が成功出来るように貯めたお金を僕に渡して、僕は最初ロンドンに勉強しに行った。そこで当時24歳だった作曲家、コーネリウス・カーデューと出合って、ニューヨークで行なっているFLUXUSの活動の事を知った。作曲家のコープランドのインターヴィユで合格してアメリカのタングルウッド・コンサーヴァトリーで勉強する学費(Scholarship)をもらえた。そこでギリシャの作曲家、イアニス・クセナキスと出会い、彼に作曲を学び始めた。クセナキスに気に入られ、クセナキスのピアノ曲がニューヨークで演奏される時に彼に連れてってもらった。

僕はクセナキスと出会う前から確率論など数学の哲学を勉強していたから、クセナキスの作曲理論は理解出来たが、それは彼の作品の凄さとはまた別の物だと思った。彼のノイズは凄かった。彼の音楽はギリシャの民族音楽のようだった。彼はオーケストレーションの事をよく分かって、スリリングな現代のギリシャの音楽を書く事が出来た。ヨーロッパでは自分のやっている事を理論的に説明しなければいけない風習がある。ジョン・ケージの場合はメソッド(方法論)があったが、それは鈴木大拙の禅の考え方に基づいていて、生きてゆく事の上での全体的な考え方だった。自分の作品を説明するだけ物ではなかった。 1960年代の初め頃のニューヨークのロワー・イーストサイドでは何百人も自分は詩人だと言っている人たちがいた。そしてみんな仕事か恋人を通してつながっていた。毎晩のように音楽家、詩人、ダンサーと言っていている人たちは街角や屋根の上でもやっていた。ダンサーのステージ・セット代わりにフィルムはよく使われていた。そして間に詩の朗読があった。ラ・モンテ・ヤングは大きなロフトに何匹の亀と一緒に住んでいた。ヨーグルトを作って、オーガニックな食事を食べていた。彼のロフトは中東のアヘン窟のようだった。みんな床の上にすわっていた。彼はドラッグを売って生活をしていた。』

ジョン・ケールはラ・モンテ・ヤングの所でドラッグを売るのを手伝いながら、彼と一緒にグループを作った。メンバーはラ・モンテ・ヤング、トニー・コンラッド、アンガス・マックリーズ、テリー・ライリーとジョン・ケールでとThe Theatre of Eternal Musicと名づけられれた。最初はラーガとブルースを混ぜたような音楽をやっていたが、ジョンが自分のヴィオラの自然倍音でインプロヴィゼーションをするようになると、ラ・モンテ・ヤングは自然倍音に基づく純正長を研究するようになる。そして伝説となったThe Theatre of Eternal Musicの音楽が生まれた。ラ・モンテ・ヤングは他のメンバーが辞めていっても、この時の音楽をやり続けた。ミニマル・ミュージックの父と自分で言うようになった。 トニー・コンラッドのレーベルから出たジョン・ケールのCD『Sun Blindness Music』にはジョン・ケールのこの頃の純正長のインプロヴィゼーションが聴ける。彼はVOXのエレクトリック・オルガンを純正長に調律して、キーボードのクラスター音を中心とした曲をインプロヴァイズした。その音楽にはクセナキスの影響ではないかと思わせるようなエネルギッシなノイズが聴ける。

ジョン・ケールはルー・リードと共に結成したヴェルヴェット・アンダーグラウンドで知られてゆく。ルー・リードは元もとからニューヨークのブルックリン出身の詩人・シンガー・ギタリスト・ソングライターでニューヨークに60年代に集まってきた色々なアーティスト、ダンサー、ミュージシャンや役者を彼の書く歌で描いた。彼のアルバム『Transformer』や『Berlin』でその姿がはっきりと伝わって来る。これらのアルバムの描いている世界が僕が子供の頃に見ていた世界である。

父はジョン・ケールについては父も学んでいたクセナキスから話を聴いていた。ジョン・ケールはタングルウッドでテーブルをいきなり2つに斧で割るパフォーマンスを作曲の発表会でやって、みんなをびっくりさせてしまった。そして、ラ・モンテ・ヤングの所でドラックを売るのを手伝っていたら、みんな捕まってしまった。その時にクセナキスに助けの手紙を書いていた。

60年代後半のニューヨークはロック、ジャズ、実験音楽、演劇、フィルムなど色々なジャンがそれぞれエネルギッシュでしかもお互いに交流があった時代だった。そのような時代はその後、見ていないし、当分ないかもしれない。

LSDというドラッグは最初はインテリたちによって広められた。カリフォニアではケン・キージーという作家。ニューヨークでは僕が知っているかぎりは現代音楽の作曲家たちだった。ラ・モンテ・ヤングやテリー・ライリーはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを始め、ソフト・マシーンのメンバー達に初めてLSDや色々な他のドラッグを紹介した。そして売人として生活をしていた。当時LSDにはまって、毎日のようにやっている人もすくなくはなかった。 僕の母も最初作曲家ラ・モンテ・ヤングにハシッシを紹介されていた。1970年代になって、僕が中学生の終わり頃になると家では毎日LSDとキノコのパーティーになっていた。コントロールを失った人々があふれていた。1回のLSDの体験は人生を変える力があるとよく言われるが、それが毎日の事となると、その"別の体験"をした事さえも薄まってしまう。となりの部屋からはセックスの音がしていた。家は僕にとっていづらい場所になっていき、この頃ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードをよく聴いていた。彼らの歌詞は僕にとって特別の意味を持ち始めた。(学校の先生たちは僕の様子が心配になって、僕を精神科に連れて行った。)何かが起きている。でもそれが何かは分からなかった。


こどもたち  The Kids by Lou Reed
訳詞:高橋鮎生 (Ayuo)

こどもたちは連れて行かれた
彼女はいい母親にはなれない
こどもたちは連れて行かれた
彼女はシスターでもブラザーでも誰とも寝ていた
あの安っぽいオフィサーとも僕の前で浮気をしていた

こどもたちは連れて行かれた
彼女はいい母親にはなれない
こどもたちは連れて行かれた
彼女がやった事を聞いて
あの黒人の空軍のサージェントが最初ではなかった
そして、彼女がやっていたドラッグの数々…

そして、僕は水の少年
本当のゲームはここにはない
でも、僕の心はあふれている
僕はもう疲れ果てている
話す言葉もない
でも、彼女の娘が連れ去られた後には
あふれているのは彼女の涙の方だ
だが僕にとってはその方がいい

こどもたちは連れて行かれた
彼女はいい母親にはなれない
こどもたちは連れて行かれた
彼女がやった事を聞いて
最初はパリから来たガールフレンドと
僕にも言えない事をやっていた
そして、インドから家に泊まりに来た
あのウェールズ人と

こどもたちは連れて行かれた
彼女はいい母親にはなれない
こどもたちは連れて行かれた
彼女がやった事を聞いて
彼女が街角でしていた事や
バーやアレイでしていた事には誰にも彼女には勝てないと言われていた
あのくさった、アバズレは誰も断る事が出来なかった

そして、僕は水の少年
本当のゲームはここにはない
でも、僕の心はあふれている
僕はもう疲れ果てている
話す言葉もない
でも、彼女の娘が連れ去られた後には
あふれているのは彼女の涙の方だ
だが僕にとってはその方がいい


Ayuo and John Cale