現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「60年代後半から見に行っていたロック・コンサート」


60年代の終わり頃にはまずフィルモア・イーストというところがあった。ニューヨークのヴィレッジの8丁目の東側のセント・マークス・プレースと呼ばれていた通りにあった。そこから角を曲がった所にはエレクトリック・サーカスといったディスコテックがあった。90年代後半のクラブ・シーンの雰囲気はこの頃のエレクトリック・サーカスと似ていた。レコードをかけているダンスタイムが中心にあった。色の付いた液体をグニャグニャと音楽に合わせて動かすLiquid Light Showがあった。ライブもよくやっていた。毎日決まった時間でモートン・サブトニックという実験音楽の作曲家がシンセサイザーの短い演奏をしていた。テリー・ライリーもオルガンやサックスとテープループでの即興演奏をやっていた。火を飲み込むマジック・ショーもやっていた。バンドのライブもやっていた。タジ・マハールという黒人のブルース・シンガーも初めてエレクトリック・サーカスで見た。サイケデリック・ショップがあった。ここで現代音楽家のジョン・ケージがマルセル・デュシャンとチェスの対戦をするイヴェントもやっていたが、何時間も人が勝手にチェスをやっているイヴェントは子供にとって面白いわけがない。僕にとって面白かったのはライト・ショーの中で大きな音でクリームの『サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ』がなる時や生のバンドの演奏をステージのすぐ下からギタリストの方に見上げる事だった。ここに母はアーティストの横尾忠則、劇作家の寺山修司など色々な人を連れて行った。 60年代後半のニューヨークはロック、ジャズ、実験音楽、演劇、フィルムなど色々なジャンがそれぞれエネルギッシュでしかもお互いに交流があった時代だった。そのような時代はその後、見ていないし、当分ないかもしれない。何かを初めてやってみるには冒険力が必要で、その結果と共にその新鮮さが残る。しかし、それがいったん一つのカテゴリーやジャンルになるとその新鮮さは消える。もう結果が見えている物だけをやるようになるからだ。ロックでフリーなインプロヴィゼーションからモーダル・ジャズのテクニークが最初と入れられた頃は誰もそれまでポピュラーの中にそのような事を混ぜる人がいなかった。実験音楽も初めての事を実験していたから実験音楽だった。21世紀に入って小さなライブハウスでミュージシャンが適当な"実験的"な音を出しているイヴェントは実験音楽と呼べない。もはや実験が終わった結果を誰かが真似してやっているだけだ。アヴァンギャルド(前衛)は新しいからそう呼ばれていた。アヴァンギャルド風の音を出しているのはもはやアヴァンギャルドではなくなった物だ。80年代から特に全てがカテゴリーに納めないといけない傾向になって、面白みが消えて行ったが、これは仕方がない事かもしれない。1990年代にポーリーン・オリヴェロスという実験音楽のインプロヴァイザ-が来日した時に僕が子供の頃にも見たトロンボーン奏者の歩き回りながら演奏する姿を見て、同じ事を未だに続けている事にびっくりした。1960年代では変った事だったかもしれないが、1990年代になると時代が違うために別のように見えてくる。その人はアヴァンギャルドのパイオニアかもしれないが、30年前に新しかった事は30年後には決まった事になっている。それを他の人が真似しても実験的でもアヴァンギャルドでもない。だから僕にとっては1990年代以後のアヴァンギャルドは形だけの物だった。僕は音楽でもどの分野でも心から訴えてくれるものが欲しい。

演劇ではリヴィング・シアターという実験演劇を小学生の時に見た。資本主義の社会から解放して自由になるにはまず服を脱ぐという事ステージで言って脱ぎ出した芝居だった。ザ・ドアーズのジム・モリソンはこの芝居を見て、影響受けてマイアミで『オレは自由になる。服も脱いでしまう』と言って服を脱ごうとする行動をした時にワイセツ罪で逮捕された。 ジャズではヴィレッジ・ヴァンガードで最後にジャズが盛り上がっている次期を見る事が出来た。僕が小学1年生から2年生の頃、父はバッファローに住んでいて、母とニューヨークで2人暮らしだった頃、よく連れられて行った。ジャズ・ピアニストのホーレス・シルヴァーは何度も聴きに言った。その内、母と親しくなっていった。彼のアパートにもよく訪ねるようになっていた。僕にもお小遣いをくれた。母が彼を好きになって事は当時の子供の僕には気づかなかったが、父と1965年から別居生活が続いていたので、両親の結婚の破局を迎えるのも時間に問題だった。僕にとっては朝早くから学校だったので、演奏最中に眠ってしまう事もあった。 ジュアン・ジルベルトもドラマーと2人だけの演奏をヴィレッジ・ヴァンガードでやっていた。ちょうどLP『3月の水』の頃だった。生ギターなのでヴィレッジ・ヴァンガードのオウナー、マックス・ゴードン、はその日のために繊細に音をひろえるマイクを仕入れていた。ここで一番印象に残っているのはセロニアス・モンクの時だった。音楽その物は子供の僕に取って理解出来たかどうかギモンだが、モンクはステージの上をふらふらとバンドの演奏最中に完全に酔っているように歩き回っていた。それから数年後だが、ブルース・ギタリスト・シンガーのマディー・ウオーターズの演奏は凄かった。色々な人生の経験をした上でのエンターテインナーだった。『アイム・ア・マン』等もはやロック・バンドの間ではスタンダードになっていた曲を歌いながらお客さんに手を叩かせて盛り上げた。あのような演奏のしかたは強いカリスマ性があってこそ出来る物だろう。名前は忘れたが、一緒に演奏していたハーモニカ奏者も凄かった。 その頃、ニューヨークにはあまり日本人がまだいなかった。80年代に久し振りにニューヨークに行った時、あまりにも日本人が多くてびっくりした。

僕が子供の頃、生活の中心はロックの周りにあった。

横尾忠則さんとは最初フィルモア・イーストでジェソロ・タルを一緒に見に行った。ジェソロ・タルの三枚目のアルバムを出した後のライブだった。ベースにはグレン・マッコミックがいて、ドラムはクライブ・バンカーだった。クラシックを混ぜて弾くピアニスト、ジョン・エヴァンスもいた。まず、イアン・アンダーソンが一人でギターの弾き語りから始めた。そしてバンドは曲の真ん中から一声に一緒に弾き始めた。すごく効果的だったが、ほとんどイアン・アンダーソンのワン・マン・バンドという要素が強かった。コンサートの後半ではジョン・エヴァンスのピアノ・ソロや長いドラム・ソロを含んだ曲もやっていた。イギリスやスコットランドのトラディショナルな要素をプログレシヴなロックに混ぜていたバンドだった。

この頃、エマーソン、レイク・アンド・パルマーもフィルモア・イーストでニューヨークの初ライブをやっていたが、僕が見に行ったのは二回目のニューヨークの公演でカーネギー・ホールでやった。これも横尾さんと一緒に見に行った。カーネギー・ホールは普段クラシックをやるホールだった。僕がニューヨークにいた時は3回しかカーネギー・ホールでのロックのライブは見なかった。エマーソン、レイク・アンド・パルマー以外ではピンク・フロイドのメダルの発売した後のツアーとファアポート・コンヴェンションのライブアルバムの頃のツアーだった。 エマーソン、レイク・アンド・パルマーは特に有名なクラシックのホールでやる事を意識していたように、プログラムは二部構成になっていて、一部はムゾルスキーの『展覧会の絵』のロック・アレンジだった。二部が最初のアルバムからの曲が中心になったプログラムだった。バーベリアン、テイク・ア・ペブル、ラッキー・マン、長いドラム・ソロを含んだ曲をやって、最後にナイフ・エッジ。アンコールはチャイコフスキーのくるみ割り人形の曲に基づく『ナット・ロッカー』。3人ステージにいるがやはり、キーボードのキース・エマーソンが特に目立っていた。オルガンの上にロデオの馬みたいに乗ってステージにころがしたまま弾いたりしていて、お客さんを喜ばせた。ムーグ・シンセサイザーという楽器も始めてロック・バンドのステージで使われていた。さすがに、これをこわすような事はしないが、シンセとつながった大きな棒のような物を取り出して、それを振り回すと音が変わるのを見せながら、アドリブの演奏をした。他の2人も負けずにがんばって目立とうとしていた。

70年にテン・イヤーズ・アフターもフィルモア・イーストで見に行った。映画『ウッドストック』で彼らの『Going Home』という曲をやっているシーンが使われてから人気が出ていた。この日は最初はライト・ショーだけで始まっていた。エレクトリック・サーカスとは違って指定席の場所なので、人がライト・ショーの時に踊る事はなかった。60年代半ばだとライト・ショーというと液体をグニャグニャ音楽に合わせて動かすのが中心だったが、この頃には動く映像のフィルムを混ぜて、レコードに合わせてやっていた。 この時のテン・イヤーズ・アフターの演奏もよかった。映画『ウッドストック』で見られる同じ迫力だった。 ハードなブルース・ロックを元気よくやっていた。ギターのアルヴィン・リーは最後の曲でギターのチューニングをどんどん下げていった。ベロンベロンの音になっていった。しまいにベース位の音域にして、ベース・ラインを弾きだした。僕はこれを真似して家でもやってみた。 詩人の高橋睦郎と2人でアリス・クーパーをフィルモア・イーストで見に行った事がある。3枚目の『Love it to Death』を出した後のアリス・クーパーのバンドは凄くよかった。後にルー・リードの『ベルリン』やピンク・フロイドの『The Wall』をプロデュースしたボブ・エズリンのセンスが音楽に響いていた。アリス・クーパーはこの頃はバンドだった。アヴァンギャルドなサウンドをハード・ロックと面白く混ぜていた。キャプテン・ビーフハートのアヴァンギャルドなロックとも共通の部分があった。この後にはどんどんエンターテインメント色が強くなり、アリス・クーパーはしまいにブロードウエイのワン・マン・ショーのようにしてしまうのだった。高橋睦郎はこの時のアリス・クーパーの演奏はすでに嘘っぽい感じを受けていた。

ピンク・フロイドが『おせっかい』を出した後にニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートをやった。コンサートでやった曲目は後で映画になった『Live at Pompei』と似ていたが、サラウンドのシステムを初めて効果的に使っているのを見た。今だにアルバムには入っていない『Mrs.Knobs』と言うブルースの曲で人が廊下を歩いている音が天上の前の方から後ろに向かって歩いているように聴こえた。ピンク・フロイドにはまだルースなフィーリングがあって、よかった。決まった構造の中でインプロヴィゼーションをやる事が多かった。『Atom Heart Mother』,『One of These Days』、『Saucerful of Secrets』, 『Set the Controls for the Heart of the Sun』、 『Be Careful with that Axe, Eugene』、『Echoes』など演奏している時代だった。それから後はもっと舞台装置にこったエンターテインメントを作り出すのだった。

ファアポート・コンヴェンションは僕の義父と2人で見に行った。『Fairport Live Convention』と同じ時期だった。この日、サンディー・デニーは『A Sailor's Life』を歌っていた。サンディー・デニーは『Who Knows Where the Time Goes』と言う曲がジュディー・コリンズにカヴァーされた事で最初アメリカで知られるようになったが、この曲はこの日はやらなかった。

クラシックのホールで見た、一番騒ぎになったコンサートはニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラが普段演奏しているフィルハーモニック・ホールで見たFlash, Dr. Hook And the Medicine ShowとEarth, Wind, and Fireが出たコンサートだった。Earth, Wind, and Fireはまだ一枚目のアルバムが出ている時で、まだあまり知られていなかった。一曲目は大きな音でエレクトリック・カリンバの音から始まった。そしてファンキーなリズムのインプロヴィゼーションを中心とした曲に入った。ノリが良かった。音楽は後のEarth, Wind, and Fireよりもマイルス・デーヴィスの70年代の『Pangea』『Dark Magus』の世界に近かった。お客さんたちはその内、踊りだした。そしてステージの上にもバンド・メンバーが誘い込んだ。ここでホールの管理している人たちはびっくりしてしまった。彼は警察を呼んだ。そして、彼はホールの電気を全て付けて、警察と共にステージの上に出てきた。Earth, Wind, and Fireの演奏を止めさせて、お客さんたちを席に帰した。そして、席から離れたら、コンサートを中止させるとアナウンスした。僕はおどろいていた。 実は僕はこのホールを楽屋から管理している人は知っていた。小澤征爾がここでフィルハーモニック・オーケストラの指揮をしている時に何度も話した事があった。ギターを始めた後に彼に大きくなったら何になりたいと聞かれた。その時にはジェファーソン・エアプレーンやザ・ドアーズのようなバンドを始めたいと僕は答えていた。 みんなをむりやり席にひっぱり下ろしている所は嫌な人間に見えていた。しかし、彼はそのようなお客はフィルハーモニック・ホールで見た事がなく、びっくりしいたのだろう。その後はコンサートは普通よりも静かに進んでいった。 Dr. Hook And the Medicine Showはコメディーとフォーク・ロックを混ぜたバンドだった。曲の大部分は漫画家で絵本作家として知られていた、シェル・シルヴァスタインの書いた曲だった。コメディー・パフォーマンスを混ぜた彼らのショーは楽しかった。他にこのようなバンドはあまりいなかった。8人位の編成で台詞を言いながら歌をやっていた。彼らの最初の3枚は特に面白かったが、ライブ盤はいまだに見たことがない。 Flashはイエスの最初のギタリスト、ピート・バンクス、が作ったバンドだった。イエスの最初の頃と似ているようなサウンドで、少しスティーリー・ダンを思い出させるようなアメリカン・ポップな部分もあった。ステージでは激しいという噂だったが、この日はEarth, Wind, and Fireの演奏が中断されたせいか、曲をひたすら真面目に演奏していた。 スティーリー・ダンもフィルハーモニック・ホールで見た事があった。一枚目が出たすぐ後だった。エレクトリック・ライト・オーケストラというジェフ・リンというギタリスト・シンガーがやっているバンドの前座に出ていた。スティーリー・ダンは後にライヴを全くやらなくなり、スタジオでひたすら曲を磨いていった。この時、お客さんでの評判はそんなによくなかった。『下手だ。イエスのTopographic Oceanでも弾いてみろ。どうだ出来ないだろう』という風にお客さんが野次を飛ばしていた。彼らにとってはやりにくかっただろう。でも演奏は僕にとってはそんなに悪くなかったような気がする。ただお客さんが野次を飛ばしていると雰囲気は悪くなる。それでライブをやらなくなったのかもしれない。 1970年の夏にマサチューセツ州のタングルウッドでザ・フー、ジェソロ・タルとイッツ・ア・ビユーティフル・デイの三つのバンドが出たライブを見た。タングルウッドとはボストン・フィルハーモニーが夏の時に演奏する田舎の町だった。その日はいい天気だった。芝生にも大きなスクリーンでステージの上の演奏が映るようにしてあった。芝生はふさふさの草で一杯だった。普段クラシックのお客さんが来る所だったので、きれいでゴミもなかった。寝っころがって聴く事も出来た。イッツ・ア・ビユーティフル・デイはサンフランシスコ出身のサイケデリック・バンドで当時のバンドではめずらしくヴァイオリンの人によって結成されたバンドだった。この日は夕方から演奏を始めていた。この日の演奏は静かなエレクトリック・フォークだった。このバンドは映画『フィルモア最後の日』や『Stamping Ground』などにも出ているが、『Stamping Ground』の時のようなワイルドな演奏にはならなかった。『Stamping Ground』の時はおそらくお客さんたちの大部分がドラッグでハイになって一緒に暴れ出したからあそこまで出来たのかもしれない。まだ一枚目のアルバムが出たばかりの次期だった。『ホワイト・バード』が男女のハーモ二—で歌われ、芝生の上で美しく響いた。夕暮れの雲を見ながら聴いた。気持ち良かった。 ジェソロ・タルはフィルモア・イーストで見たのと同じ時期でサード・アルバムの『Benefit』の曲を中心に演奏していた。しかし、このようなフェスティバルのような環境では目立つバンドではなかった。お客さんは歩き回りながら、ザ・フーが登場するのを待っていた。長いピアノ・ソロやドラム・ソロはうまかったのにこの場の客さんには聴かれていなかった。このような経験の後、ジェソロ・タルは『Aquarung』、『Thick as a Brick』、や『Passion Play』のようなプログレシヴ・コンセプト・アルバムを立て続けにだすようになったのだろう。そしてジャズ的なインプロヴィゼーションの部分は影になった。僕自身も『Aquarung』、『Thick as a Brick』、や『Passion Play』のアルバムの頃が一番好きだ。 ザ・フーのこの日の演奏は彼らのヴィデオ『30 years of maximum R and B』にも一部が収録されている。この日の演奏は特によかった。ビル・グラハムのアナウンスに続いてベースのジョン・エントウィッスルの歌う『Heaven and Hell』で始まった。ジョン・エントウィッスルはジェファーソン・エアプレーンのジャック・カサディーと共に僕の最も好きなベースを弾く人だ。彼らはエレクトリック・ベースのロックでの弾き方を作った人たちだ。ベースの魅力は何かと聞く人がいたらまず彼らの演奏しているアルバムを聴くのが一番良いだろう。ジェファーソン・エアプレーンだったらフィルモアのライブ盤『Bless its Pointed Head』か『Volunteers』。ジョン・エントウィッスルならザ・フーの『Quadrophenia』かこの70年頃のライブが一番良いだろう。キース・ムーンはドラム・スティックを投げながら、独特な動きで叩いていた。バンドにはまずベースとドラムがまとまって元気良く演奏している事が大事だ。前半は『Who's Next』のために録音し始めていた新曲を含めながら『Live at the Leeds』の曲を中心にやっていた。もはや一時間近くやってから、ロジャー・ダルトリーが『今日はやるつもりじゃなかったのだが"トミー"を全曲これからやるよ』と言った。激しい喜びの声と握手の中で"トミー"の『Overtutre』は始まった。この日は『Underture』等の長いインストの部分も全部演奏した。バンドのまとまりがよかったら、特にこういうインストの部分がよかった。"トミー"のさいごの『See me, Feel me』が終わると『My Generation』が始まった。 この日の席はボストン・フィルハーモニーの指揮者になった小澤征爾さんがボックス席を取ってくれて、一緒に見に行った。ボックス席は中央の真ん中にあって、クラシックの場合は一番バランス良く聴ける席だが、ロックの場合はちょっとちがった。ザ・フーが始まるとサクション・パンプを付けたスニーカーを履いている何人かのお客さんたちは壁によじ登ったりして見ていた。前の席の人たちもすぐ立ち上がりだした。小澤征爾さんも他のお客さんと一緒『Sit Down』と前の人たちに言っていた。 タングルウッドは夏の音楽祭のために大勢の音楽家たちがやってくる。僕の最初のギターの先生、スタンリー・シルヴァーマンも別荘を借りていた。そこで初めてエレクトリック・ギターを弾いてみた。メチャクチャに弾いてもヘンドリックスで聴けるようなノイズが出るのが特に好きだった。ノイズその物に酔いながら、ずうっと弾いていられる。その次の年、11歳の時に初めてエレクトリック・ギターを誕生日に買ってもらった。