現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「70年代の前半のロック・コンサート」


僕が最初に見たロック・コンサートは武道館のビートルズだったが、ニューヨークに行ってからはUnited States of Americaというバンドを見た。
家にLPをあったが、当時彼らはまだ成功していたバンドではなかった。リーダーは現代音楽をUCLAで勉強しながら、コミューンで暮らしていたJoe Byrd。彼はニューヨークでも批評家・作曲家のVirgil Thompsonのアシスタントとして働いたり、実験音楽の作曲家・アレンジャーとして知れてきていた。UCLAでもインド音楽のミュージシアンから学んだり、電子音楽を研究し続けた。そしてUCLAの生徒Craig Woodson (drums), Rand Forbes (bass), Gordon Marron (Electric Violin) と女性ヴォカリストのDorothy Moskowitzと共にUnited States of Americaというバンドを結成した。Joe Byrdはキーボードを担当していた。電子音楽の要素や実験音楽のコラージュ的な要素も入っていた。当時はまだムーグ・シンセサイザーのような物はまだなかったが、サイン・ウエーヴを使った非常にプリミティヴな電子楽器は使っていた。これにリング・モジュレーターやエコーのエフェクトを付けてシンセのような音を演奏していた。当時CBSはテリー・ライリー『A Rainbow in a Curved Ai』やジョン・ケ-ルとテリー・ライリーのジョイント・アルバムを作ったりしていて、実験音楽とロックの要素が混ざった物を探していた。60年代の実験音楽は後の現代音楽と違い、United States of Americaは一枚のアルバムだけ出した。Dorothy Moskowitzは後にCountry Joe McDonald's All Star Bandに参加していたが、その後どうなったかは分からない。Country Joeとは勿論ウッドストックにも登場しているサン・フランシスコの伝説的なサイケデリック・バンドだ。プロデューサーのDavid Rubinson はMoby Grapeのプロデュースでもうすでに知られていた。その後もSantanaのヒット・アルバムをプロデュースするようになっていた。
今ではUnited States of Americaのアルバムは伝説的なサイケデリック・アルバムになっている。
彼らのニューヨークのライブはハンターズ・カレッジのホールでやっていた。めずらしく父と見に行った。父は昔もその後もロックにあまり興味がなかった。おそらくJoe Byrdの知り合いからUnited States of Americaの事を聞いていたのだと思う。 会場は実験音楽やクラシックのコンサートのように静かだった。照明は比較的暗かった。それぞれのメンバーにライトが当るくらいでシンプルだった。僕がフィルモア・イーストやエレクトリック・サーカスで見るようになったようなライト・ショーもなかった。彼らのデビュー・アルバムの曲を一つ一つやっていた。『Hard Coming Love』のようなジェファーソン・エアプレーンのようなロック・ソングでもお客さんは静かに座ったまま見ていた。曲が終わると上品に手を叩いていた。一時間くらいで終わった。後でステージの上にあった楽器を見に行った。

Wishbone Ash
photo by Ayuo

当時CBSのプロデューサー、ジョン・マックロアの家にこの頃遊びに行った事もあった。彼がジョン・ケールの最初の2枚のアルバムをプロデュースした。ニューヨークのミッドタウンの高そうな所のマンションに住んでいた。まずはリヴィング・ルームでこれからのオーディオになるといって、クアドロフォニックの紹介をした。Quadrophonicとは4チャンネルで部屋の四つ角にそれぞれスピーカーを置いて聴くシステムだった。まずはみんなにカーペットの上に寝っ転がらせて、大きな音で列車が通る音源を聴かせた。まるで本当の列車が体の上を通りすぎてゆくような迫力だった。そして、晩ご飯を食べてから、隣り部屋に移った。隣りの部屋には大きなシンセサイザーが置いてあった。まだシンセサイザーという物は数少なく、壁を一つ取ってしまうような大きさだった。たくさんの線が一つの機械から次へとつながっていた。机の上にそれをコントロールするキーボードが置いてあった。ポリフォニックなシンセサイザーはまだ発明されていなかったので、音を一つづつ弾く事しか出来なかった。僕はシンセサイザーの前に座って、キーを押してみた。グワングワン音が出た。面白かった。みんなそこの部屋にいる人たちがいやになるほどグワングワン弾き続けた。少しボタンやノブをひねるとまた変った音が出た。飽きなくずっと遊べた。
それから1968年にジェファーソン・エアプレーンとジョン・ハモンド・ハモンドというエレクトリック・ブルース・ギタリストのコンサートを見に行った。この日、女性ヴォカリストのグレース・スリックは調子が悪くて出られなかった。他のメンバーはみんないた。最初は客席に座って見ていたが、後でステージに近寄って行って、ステージのすぐ下で見た。曲の始めはよくギタリストのヨーマとベースのジャックがどんどんステージの床を足で叩きながらテンポを合わせて曲を始めていた。マーティー・バリンが中心に歌っていた。『プラスティック・ファンタスティック・ラヴァー』や『イッツ・ノー・シークレット』を早いファンキーな感じでやっていた。特にこの日はファンクとエレクトリック・ブルースの要素が強かった。
この日のお客さんの感じはUnited States of Americaの時とは違い、自由に歩き回りながら聴けた。自由を感じた。
それから1970年ごろにピーター・ポール・アンド・マリーのピーター・ヤローが制作したピース・フェスティヴァルというのを見に行った。一日のフェスティヴァルで、メッツ・スティディウムという野球場でやった。出ていたアーチストはTen Wheel Drive, Johnny Winter, John Sebastian, Janis Joplin, Steppenwolf, Creedence Clearwater Revival, などだった。ピーター・ヤローからの特別のチケットを僕と母と義父に渡してくれた。マイルス・デーヴィスも出るはずだったが、遅刻して来たらしく、裏でうろうろしていた。義父はマイルスに出ないのかと話し掛けた。 『出るつもりで来たけど、順番の時にいなかったと言われた。だからこの辺で待っている』と言っていた。結局は出なかった。 Janis JoplinはKosmic Bluesの時のブラス・セクションを含んだ大きなバンド編成で出ていた。野球場の夜のまぶしいライトが付いている所に出てきた。 『まぶしいー。電気を消してくれ。』と叫びだした。 反応がないとどんどん怒ってきた。 『まぶしくて、これじゃ歌えないよー。分かってくれないのか!』と怒鳴りだした。 ヒステリーになりそうだった。 そうするとお客さんも電気を消してやれよと言い出した。 しばらくたって、電気が消えた所でやっと演奏を始めた。ソウルやブルースを中心に歌っていた。しかし、僕にとってはビッグ・ブラザー・アンド ザ・ホールディング・カンパニーのヴォーカリストだった時代のジャニスが一番印象的だった。ソウル・シンガーのジャニスにはもう一つパワーが欲しかった。
Steppenwolfはこの頃カッコよかった。映画『イージー・ライダー』のオーペニング・テーマとなった『Born to be Wild』で一般的に知られるようなっていた。彼らは最初の頃はかなりアヴァン・ギャルドなインプロヴィゼーションをするバンドだった。『Early Steppenwolf』というアルバムに入っている『The Pusher』という曲では21分くらいのアドリブ中心の演奏をしている。キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』よりもアヴァン・ギャルドなアプローチで始まっていた。
僕の見た頃は『Monster』や『Steppenwolf Live』を出した次期でこれらに入っている曲を中心にやっていた。 『Monster』とはアメリカの事でこの10分の組曲はアメリカのベトナムの侵略を反対する歌だった。当時この曲の歌詞はヒット・パレードなどの雑誌にも乗っていた。暗いステージの上でヴォカリストのジョン・ケイが真ん中にたっていた。そして『Born to be Wild』でSteppenwolfのコーナーは終わった。当時の僕に大人になったらどんな事をしたいだろうかと聞かれたらこのバンドのやっているような事と答えただろう。 Creedence Clearwater Revivalは日本ではCCRと略した名前で知られている。
『Cosmos Factory』などが彼らの名作だと思う。このアルバムではブルース・ロックの要素も長いアドリブの要素もうまくブレンドしている。ギタリスト・シンガーのジョン・フォガティーはサン・フランシスコ近辺の白人でありながら、ゴスペル・シンガーのように歌えた。『Proud Mary』という曲はアイク・アンド・ティな・ターナーにとっての大きなヒットになっていた。シンプルなコード進行とファンキーなリズムの上に歌うジョン・フォガティーの歌には感動した。彼は本当に迫力があった。
1970年の冬休みの2週間に久し振りに父に会いに行った。父はカレンというアイリッシュ・ポーリッシュ系アメリカ人とサン・フランシスコで結婚したばかりだった。両親が離婚していて、別々の都市に住んでいる場合、久し振りに会うと普段よりも親切になる。普段会えないからだ。
この時もこれだけ長く会うのは1968年以来だったかもしれない。 この2週間の間に3回くらいコンサートに行っている。
一つはエマーソン・レイク・アンド・パルマ-がサン・フランシスコの近くのバークレーで演奏した時。この時のオーペニング・アクトはエドガー・ウインターだった。父とカレンと僕3人で行ったが、カレンはエドガー・ウインターのショーが始まってからずうっと耳を押さえていた。苦しそうな顔をしていた。そして、途中から出て行った。大きな音が絶えられなかったのだ。エドガー・ウインターのこの頃のライヴは白人のバンドでソウルを中心にやっていた。バンドの名前もホワイト・トラッシュと呼んでいた。エマーソン・レイク・アンド・パルマ-の音楽とは遠かったが、ジャンルと関係なくブッキングされている事が多かった。 エドガー・ウインターは後にアープ・シンセサイザーのソロを中心に演奏した『フランケンシュタイン』というインストの曲がヒットして知られるようになって、その曲は僕もよく聴くようになったが、この頃の彼の演奏にはあまり強い印象をもっていない。
白人のソウル風の歌い方で当時一番よかったのはCCRのジョン・フォガティーだったと思う。 エマーソン・レイク・アンド・パルマ-は『タルカス』というアルバムを出したばかりだった。僕はエマーソン・レイク・アンド・パルマ-を見るのは2回目だった。
前回は『展覧会の絵』を一部にやっていたが、今回のセットリストは:

Barberian
Take a Pebble
Tarkus - Lucky Man, Epitaph
Knife Edge
Encore: Nutrocker

『タルカス』がやっぱり強い印象を持つ曲だった。
この曲の途中でキース・エマーソンはムーグ・シンセサイザーから線でつながった大きな棒のような物を取りだして、それを振り回すたびに音が大きな音でビヨーンと上がったり、下がったりするのが面白かった。ドラム・ソロになるといつもカール・パルマ-はシャツを脱いで、上半身裸になった。この頃、カール・パルマ-はかわいらしい顔をしていたのでゲイの間でかなりの人気だった。 父はそんなに面白いとは思ってないようだった。『Barberian』はバルトークのピアノ曲に基づいていたし、キース・エマーソンは早引きでクラシック・ピアノもジャズ・ピアノも上手に弾ける人だが、そのロックのビート感じやショーマンシップが好きではなかったのかもしれない。僕は3人でライトショーもコスチュームとかもなく、演奏だけでよくここまで出来るなと思っていた。
それからテリ-・ライリーがオーガナイズしたインド人のラーガのヴォーカリストのコンサートを見た。サン・フランシスコの人のアパートの大きなリヴィング・ルームみたいな所でやっていた。入り口の所で黒い髪の長い男がカレンに話しかけた: 『コンサートに行きたいんだけどお金が足りないんだ。一ドル譲っていただけません?』 カレンはその男に一ドルを渡した。 『どうして渡したの?』 『コンサートに行きたいと言っていたから。でも多分こないよ。一ドルが欲しかっただけだと思う。』 こういうコンサートには切符やお金を持っていなくても、なんとかなるケースが多かった。
これは"人間はお互いを信用出来る"という感じが1966年頃からニューヨークよりもサン・フランシスコに強くあった。持っている人は持ってない人に分かち合うという感じが漂っていた。その部屋に行くとインド音楽を聴きに来たヒッピーでいっぱいだった。さっき一ドルをねだった男も来ていた。
インド人のヴォーカリストはテリ-・ライリーの家に泊まっていた。テリ-・ライリーの奥さんはそのインド人があまりにもこういう物を食べるな、とかこうするなとかルールをたくさん言うので嫌になっていた話は聞いていた。テリ-・ライリーの奥さんはカレンにその インド人が出て行かなければ、自分が出てゆくと言ってた。後でこのヴォーカリストはニューヨークの作曲家、ラ・モンテ・ヤング、のプロデュースでフランスのレーベルからラーガのソロ・アルバムを出していた。
リヴィング・ルームの部屋ではPAなしでテリ-・ライリーとテリ-・ライリーの娘がインド人のヴォーカリストの伴奏を始めた。テリ-・ライリーの娘はタンブーラをずうっと奏でていた。タンブーラとは弦が張ってあって、何も押さえずにずうっと同じルートとその5度上やオクターブ上を奏でるラーガの伴奏楽器である。
(テリ-・ライリーの娘とは僕が8つの頃、ニューヨークで一度縄跳びで遊んだ事がある。) 12月31日のグレートフル・デッドのニュー・イヤー・コンサートに切符が3枚あったが、カレンは行きたくなかったし、父もそんなに興味がなかった。 サン・フランシスコに当時住んでいた日系人の作曲家、ポール・チハラとカレンの友達のマージ-と一緒に行く事になった。
サン・フランシスコのウィンターランドでやったこのコンサートに出たバンドは出た順番で次のとおりだった:

Stoneground
New Riders of the Purple Sage
Hot Tuna
Greatful Dead

サン・フランシスコのお客さんはニューヨークのお客さんよりも激しく騒いだ。僕の右側の隣りに座っていた人はLSDで完全にトリップしたまま一人で笑いながら見ていた。何度か『大丈夫?』と僕は話かけてみた。
ホット・ツナのこの時のメンバーは彼らの名盤『Burgers』の時と同じでジェファーソン・エアプレーンのギターのヨーマとべースのジャックにエレクトリック・ヴァイオリンにパパ・ジョン・クリーチとドラムにサミー・ピアザだった。僕はホット・ツナを4回見ていて、これ以前にもフィルモア・イーストでアコースティック・ホット・ツナを見ていたが、このニュー・イヤー・コンサートの時が一番迫力が凄かった。
初めて見たパパ・ジョン・クリーチという黒人のヴァイオリニスト弾く激しいブルース・フレーズはギターでしか聴いた事がないものだった。

Strawbs
photo by Ayuo

ジェファーソン・エアプレーンでもやっていたエレクトリック・ブルースが中心の演奏だった。 そして、1970年から1971年のカウント・ダウンが始まり、3,2,1、0、ハッピー・ニュー・イヤーとアナウンスがあったと共にグレートフル・デッドの演奏が始まった。ステージの上にいるジェリー・ガルシア、ボブ・ウイヤとフィル・レッシュは嬉しそうにニコニコしていた。
天上の紙のボールがぱかっと空いてそこからコンフェティがぱらぱらとふってきた。お客さんは興奮して、叫んだり、わめいたりしていた。一曲目は『Truckin』だった。グレートフル・デッドはスタジオのアルバムで聴くよりはライブの方が全然よかった。お客さんも一体になって、凄いエネルギーが会場に回っていた。
イエスは僕は73年から74年の間で5回見に行っている。初めては8月16日、1973年のニューヨークのブロンクスの野外公園、ゲーリック・パークだった。ゲーリック・パークは汚い公園だった。出口の近くはゴミと壊れたボトルの山だった。このコンサートの製作者はウッドストックみたいに夏の公園を楽しめるライブが頭にあったのかもしれないが、ゲーリック・パークには芝生もなく、コンクリートの上に座らなければいけなかった。
この日、日本から来た母側の遠い親戚と一緒にいっていて、僕らはステージの前の方に見ていた。
イエスの音楽はザ・バーズやクロズビー、スティルズ、ナッシュ・アンド・ヤングのようなハーモニー・ヴォーカルに激しくドライヴするリズムがあった。キーボードにはリック・ウエイクマンというクラシックの教育を受けた元スタジオ・ミュージシアンがクラシックの要素やフレーズを入れていた。アラン・ホワイトの前のドラマー、ビル・ブルフォード、ジャズのリズムの要素をたっぷり入れていた。イエスの音楽はクラシック、ジャズ、映画音楽など色々な音楽からブレンドして、どうなるか見てみようという感じで最初作られた音楽だった。この時代では新しい感じがしていた。
コンサートの前半では前にいる人たちが立っていたので、後ろからずうっと『Sit Down』という怒った叫び声が聴こえていた。ジョン・アンダーソンは最初はお客さんに『僕らは音楽を演奏しに来たんだ。お客さんにああしろとかこうしろとか言うのは僕らの役目ではない。みんなのためになるのだったら、座った方がいいじゃない。』と言っていた。それでも『Sit Down』という声はおさまらなかった。
この時のセットリストは次の通りだった:

Firebird Suite
I've Seen All Good People
Siberian Khatru
Mood For A Day
Clap Heart Of The Sunrise
And You And I
Wakeman Solo
Roundabout
Yours Is No Disgrace

僕自身もその時、カセット・レコーダーを持って行って、この時のライブを録音していたが、1975年にニューヨークの家がなくなってから、一緒になくなってしまっている。でも同じ時の演奏の海賊盤が出ているのを発見した。それはGold Stainless-Nail(Highland HL418)だった。 この時はアラン・ホワイトが参加した初めてのツアーでまだ完全に落ち着いていなかったので、ベースのクリス・スクワイヤーがドラムの方をよく見ながら合図を出したりしていた。
この頃、クリス・スクワイヤーはステージでは黒いマントを着ていて、飛び跳ねながら演奏していた。この時の『Heart of the Sunrise』の演奏は凄くよかった。後で何度もカセットでこの時の演奏を聴いていた。『Heart of the Sunrise』の途中でジョン・アンダーソンはお客さんに『Okay. Stand up』と言ってしまったのでそれからはずうっと終わりまでお客さんは全員立っていた。
この数週間後にまたゲーリック・パークにハンブル・パイ、エドガー・ウィンター、ラマタムという3つのバンドが出たライブを見に行った。
ラマタムはジミ・ヘンドリックスのバンドにいたドラマー、ミッチ・ミッチェルとブラインド・フェイスのベース、リック・グレッチが女性のリード・ギタリストとサックス奏者と新しいバンドを組んだという話題で知られてきた。女性のリード・ギタリストは歌わなかったが、美人でヘンドリックスのようなハード・ブルースのリード・ギターを弾くというのが話題だった。ヘンドリックスのエレクトリック・レイディー・ランドで聴けるような実験的なインプロヴィゼーションの面もあって、面白かったような気がする。そのような気がすると書いているのはこの後聴いてないから、今聴くとどう感じるかは分からないという事だけど。
エドガー・ウィンターはこの頃シンセサイザーを肩からしょって弾く事が中心になっていて、『フランケンシュタイン』というインストのヒット曲を出していた。この時のエドガー・ウィンターのライブはプログレ色の入った方向性がはっきりとあって、初めて見た時よりだいぶ面白い感じになっていた。
僕はハンブル・パイの名作は『Rock On』と『Rockin' the Fillmore』だと思っている。これらのアルバムではリード・ギターのピーター・フランプトンと他の3人、ギター・ヴォーカルのスティーヴ・マリオット、ベースのグレッグ・リドリー、ドラムのジェリー・シャーリーが凄かった。25分の『Walk on Gilded Splinters』のメンバーのインタープレイには中々インプロヴィゼションではいかないテレパシーが通じているようなパワーが感じる。
ジェリー・シャーリーのドラムはスタイルでいえばロック・ドラムスだがジャズに例えるとマイルス・デービスのトニー・ウイリアムズのようにリズムを自由に動かす事が出来た。僕が見た頃のハンブル・パイは『Smokin'』と『Eat it』というアルバムの頃だった。ピーター・フランプトンがやめて、ギターがクレム・クレンプソンになっていた。そして、スティーヴ・マリオットがフロントにより中心に出ていた。ここでは前にあったメンバー同士のインタープレイが減っていた。スティーヴ・マリオットのバンドになっていた。
ゲーリック・パークの時はまだ『Eat it』はまだ出ていなかったが、そこに入っている『Up Our Sleeves』『Honky Tonk Woman』 『Roadrunner』などはもうやっていた。最後に『I Don't Need No Doctor』を演奏した時は周りのお客さん手が大きな波のように音楽と一緒に叩いていた。
その次にハンブル・パイがニューヨークに来た時は20,000の人が入るマデソン・スクエア・ガーデンでやった。その時は3人の黒人のコーラスを歌う女性シンガーたちをバック・ミュージシアンとして連れてきていた。『Eat it』のツアーだった。アンコールでやった『Smokin』のヒット曲『Hot and Nasty』ではヴォーカルのスティーヴ・マリオットがファンキーなオルガンを弾いていたのが特に印象的だった。
ハンブル・パイはレッド・ツェッペリンのようにもっと知られていいバンドだった。しかし、これが売れていたピークだった。この後2枚アルバムを作って解散した。 11月20日、1973年のイエスのコンサートはニューヨークのロング・アイランドであった。曲のセットリストは8月の時と似ていたが、今回は『危機』の『Close to the Edge』をやった。セットリストは次の通りだった:

Firebird Suite
Siberian Khatru
I've Seen All Good People
Mood For A Day
Clap
And You And I
Heart Of The Sunrise
Close To The Edge
Wakeman Solo Roundabout
Encore: Yours Is No Disgrace

この頃のイエスはまだ毎晩、同じように演奏していなかったと思う。『Yours is no disgrace』のワオ・ワオ・ギターの音はまるでガラスを壊しているような音だった。『Heart of the Sunrise』ので出しのオルガンもミステリアスでアルバムともライブ盤の『イエスソングス』の時とも違って聴こえた。『Close to the Edge』でもインプロヴィゼションが多かった。曲の終わりではギターのスティーヴ・ハウはギターを膝に置いて、両手でギターのフレットの上を指でタップ『していた。Heart of the Sunrise』では途中の静かな歌の部分でジョン・アンダーソンが歌わなくなってしまった。どうしてかは分からない。バックとずれたのか?言葉と音楽が合わなくなったのか?言葉が出なくなったのか?何かの理由で歌わなくなってしまった。『SHARP - DISTANCE』と歌い、バンドが大きな音では入る時に戻った。
会場にはマリファナとハシシの匂いが漂っていた。多分、演奏している人たちもリック・ウエイクマン以外はやっていたかもしれない。音楽には気持ちよく揺れている感じがあった。ライブ盤の『イエスソングス』みたいに完璧に演奏しようとするよりはその気持ちよさを大事にしていた感じだった。
イエスは1972年ではまだオープニング・アクトとしてしかツアー出来なかったが、『こわれもの』がリリースされた時に状況は突然変わった。1974年の『Tales from the Topographic Oceans』のツアーでは20,000が入るマデソン・スクエア・ガーデンを売り切った。僕は2月18日と2月20日の両方の公演に行った。

Firebird Suite
Siberian Khatru
And You And I
Close To The Edge
The Revealing Science Of God
The Remembering
The Ancient
Ritual
Roundabout

学校にデイヴという友達がいた。彼はチケットを買っていた。イエスのコンサートは月曜日と水曜日という学校の日にあった。最初、家に遊びに来て、行く時間になるまで、モノ・ポリ(人生ゲームのようなボード・ゲーム)で遊んだ。
このコンサートはそれまでのイエスのコンサートよりも長かった。『危機』と『Tales of Topographic Oceans』を両方とも全曲やった。イエスのコンサートはどんどん大型になって行った。
『危機』の時はアラン・ホワイトのドラム・セットの後ろから最初、会場中に映るミラー・ボールを回して、曲の一番静か『I Get Up, I Get Down』の所ではドライ・アイスがステージから観客の方へ広がっていった。『Tales of Topographic Oceans』の曲をやっている所ではアルバムに乗っている雲や滝など写真が映し出されていた。そして、最後の曲のドラム・ソロの所ではドラム・セットの上から虹の7色が光っていた。この時の音源は海賊版としても出ていた。『Songs from the Topographic Oceans』というタイトルで出ている。『The Remembering』が特にいい。リック・ウエイクマンがムーグ・シンセサイザーで思い切り長くエモーショナルなソロを取っている。ステージではキーボードのメロトロンの所にビールが置いてあって、飲みながら演奏していた。本当は彼は『Tales of Topographic Oceans』の曲がそんなに好きではなかった。しかし、不思議と彼のソロ演奏はもしかするとそのせいで目立ってよかった。彼はこのツアーの後で一時期イエスをやめた。
ジョン・アンダーソンは色々な人がバイブルを音楽に付けるつもりなのかと言われたが、こういう事も可能でちゃんと成功出来るのだと見せてやりたかったと言っていた。 1974年の10月にはリック・ウエイクマンはマデソン・スクエア・ガーデンでオーケストラを連れてソロ・コンサートをやった。彼の最初の2枚のソロ・アルバムの曲を中心にやっていた。
その一ヵ月後の11月20日にイエスはリレーヤーのコンサートをマデソン・スクエア・ガーデンでやった。オーペニング・アクトはグリフォンだった。グリフォンはヨーロッパの中世の楽器を使ったり、ルネッサンスの曲を演奏する事で注目を集めたバンドだった。イエスの前座で出た事によってより知られるようになった。楽しげなヨーロッパの中世風の曲でグリフォンの短いセットは終わった。
イエスのセットリストは次の通りだった:
Firebird Suite
Sound Chaser
Close To The Edge
To Be Over
Gates Of Delirium
And You And I
Ritual
Siberian Khatru Roundabout

今回は前回よりもさらに色々な装置や仕掛けが増えていた。まずステージにはSF映画に出てきそうなチューブからメンバー一人一人が登場した。キーボードにはパトリック・モーラズというジャズのテイストやアヴァン・ギャルドなタッチで弾けるプレイヤーが新しく入っていた。会場中にスピーカーを置いて、音を会場中にぐるぐる回そうとしていた。『Sound Chaser』みたいにバリのチャントが突然飛び出すような曲で効果的になるはずだった。僕は前のほうで見ていたから良かったが、上の方にいた人たちに取っては突然大きな音で側で鳴り出す事があったらしい。前の方ではマリファナの煙と匂いにつつまれる感じだった。
『Ritual』をやっていた頃には非常に気持ち良くなっていた。中学生や高校生が多かった。みんなが買った席からはなれて、前の方にマリファナの煙につつまれて床の上に座っている感じがとてもよかった。
幻想かもしれないが、平和的だった。演奏している人たちも多分ハイだった。
90年代に元イエスのドラマー、ビル・ブルフォードをインタヴューすると、彼はイエスは自分がいた頃のイエスのパロディー・バンドになってしまったと言っていた。

Ayuo and Bill Bruford

初期のイエスはその日のアドリブも多く、カオス的な部分があったが、それが面白さも作っていた。こういった部分はだんだん有名になっていくと少なくなったが、まだこの『リレイヤー』の時期には感じさせていた。 70年代の半ばに向かって、ロック・ショーはだんだん大型なエンターテインメントになって行った。
キンクスはミュージカル・ロックのショーを2回も作った。
モット・ザ・フープルはブロードウエイのミュージカルをやる所で一週間毎晩コンサートをやった。この時、前座はクイーンだった。デビッド・ボウイはニューヨークではミュージカルで有名なラジオ・シティー・ミュージック・ホールでコンサートをやった。それぞれのバンドがより豪華で目立つショーを作ろうとしているような気配だった。これらのショーを見に行っていた。
キンクスのミュージカル・ショーは特に凄かった。よくこんなにおおがかりでやれると思った。『Preservation』のショーの時は何人もコーラスの人やブラス・セクションを含めて、本格的のブロードウエイ・ショーをロック・ビートに乗せたようなコンサートをやっていた。これだけ大勢の人でツアーするのも大変だったかもしれない。その後一度も『Preservation』のような大掛かりのショーをキンクスはやっていない。しかし、面白かった。

Kinks
photo by Ayuo

アルバムよりも『Preservation』はコンサートで初めて本当に生きてきた。『Preservation』のショーはまず『Daylight』で始まった。暗闇のステージから少しづつ明かりがつくと何人もコーラスの人たちがいた。小さなVillage Greenという町の夜明けだ。そこにフラッシュというギャングがやって来て、町中の家を買って、建て直して、高く売る。フラッシュは貧しい階級からがんばってのし上がって来た人だ。甘さは許さない。

"We'll buy up all the towns, and we'll knock them all down. Build a brand new world of our own"
資本主義の世の中では力を持った者が勝つと歌う。フラッシュの役はステージの上でキンクスのシンガーのレイ・ディヴィスが演じている。曲の間は台詞を言っているが、お客さんにも『そうじゃないか』と見て話かける。彼と対照的なのはミスター・ブラック。ミスター・ブラックは悪い政治家から民衆を救うと歌う。全ての女性、全ての男性、一緒に立ち上がろう。いつか人々が自由になる日が来ると歌う。ミスター・ブラックの役は白黒のスクリーンからレイ・ディヴィスが歌う。スクリーンの中のレイ・ディヴィスはあまり感情でないキャラクターだが、ステージ上のフラッシュにはカリスマがある。普通のキンクスのコンサートだとレイ・ディヴィスがほとんどの曲を歌うが、『Preservation』のショーでは2人のキャラクターを演じている。『Preservation』のアルバムでは彼が歌っている曲もステージではそのキャラクターを演じている人が歌った。このアルバムからシングルに出されたヒット曲『Mirror of Love』でさえもフラッシュのガールフレンドの役を演じている女性シンガーが歌った。キンクスの昔ながらのファンにとっては昔のヒット曲をレイ・ディヴィスが中心になってやってくれないから、がっかりした人もいるかもしれない。僕にとってはこの頃のキンクスこそに一番好きな歌が入っている。『Preservation Act 2』の曲では『Oh Where Oh Where is Love』,『Nothing Lasts Forever』や『Mirror of Love』が特に好きだ。
愛は一体どこにあるの?『Oh Where Oh Where is Love』

インチキ話や殺人や自殺がある世の中で愛やロマンスの場所はない。
悪意や憎しみや恨みのある世の中で正直になれるわけがない。
そして毎晩、目を閉じる時に星に聞く、
愛は、愛は、一体どこにあるの?
絵本や童話で読んだような
愛やロマンス、
人々が普通に昔の暮らしでしていたと聞いていたものは一体どこにあるの?
どこに行ってしまったの?
愛はどこ?
希望はどこ?
同情とか信頼は一体どこにあるの?
信用はどこ?
シンプルな物に対する喜びはまだ存在するの?
人に対する敬意や尊敬はどうなったの?
愛は、愛は、一体どこにあるの?

世界はぐるぐる回りながら変わって行く、
そして僕の頭は勉強したもので一杯だ。
でも考えはしょっちゅう昔覚えたた事に戻ってしまう。
僕ももっと強くなるべきだと分かっているが、
それでも気持ちは収まらない。
そして奥深いところから叫び声が聴こえる。
愛は、愛は、一体どこにあるの?
絵本や童話で読んだような
愛やロマンス、
人々が普通に昔の暮らしでしていたと聞いていたものは一体どこにあるの?
どこに行ってしまったの?

インチキ話や殺人や自殺がある世の中で愛やロマンスの場所はない。
強姦や憎しみや恨みのある世の中で正直になれるわけがない。
そして毎晩、目を閉じる時に星に聞く、
愛は、愛は、一体どこにあるの?
愛はどこ?
希望はどこ?
同情とか信頼は一体どこにあるの?
信用はどこ?
シンプルな物に対する喜びはまだ存在するの?
人に対する敬意や尊敬はどうなったの?
愛は、愛は、一体どこにあるの?

『Preservation』のストーリーではフラッシュの魂がフラッシュに語る
『君は国や人々のためだと言っていたが、自分のために行動してなかったじゃないか』
フラッシュはそのギモンを持ち出してから弱くなり、ガールフレンドも去ってしまい、ミスター・ブラックに捕まってしまう。ミスター・ブラックは働くものための国を作る。そこではみんなの脳も監視されている。ターザンのような体をしていて、キャリー・グラントのような美男子の新しい人工的な男を作り出して行く。"タフな時代になった。でも昔の事を考えてもしょうがない。みんなで手をつないで、新しい時代に向かって歩こう。ブレイブ・ニュー・ワールドが始まった。"とコーラスで歌って終わる。
『Preservation』のショーは赤字だったかもしれない。その後このような大掛かりのショーでキンクスはツアーした事がない。この頃だったから出来た事かもしれない。しかし良かった。
キンクスの次のツアーでは人数を減らしてミニチャ-版のミュージカル・ショーをやった。『Soap Opera』というタイトルだった。
一部では『Preservation』の曲を中心に歌って、2部では『Soap Opera』のアルバムの曲を全曲台詞入りでやった。今度は一人の女優のみをツアーに連れてきた。ストーリーはロック・スターでプロデューサーが普通の9時から5時に働くサラリーマンの生活を試してみると言う内容だった。最後になって実は本当は逆でサラリーマンがロック・スターの夢を見ていたと奥さんは言う。その時にレイ・ディヴィスは『嘘だ、オレはロック・スターだ』と言って次から次へとキンクスのヒット曲を弾いて行くきっかけになる。そしてそれらの曲を聴きたかったお客さんを喜ばせる。だがやっぱり普通の人でロック・スターではなかったと言う事でストーリーは終わる。このコンサートも面白かったが、僕にとっては『Preservation』の方が好きだった。

ニューヨークでのロック・コンサートは1971年ごろからはアカデミー・オヴ・ミュージックという3000人の劇場が中心の場所になった。普段、平日は映画館だった。中学生になると一人でふらっと歩いて行く事もあった。アカデミー・オヴ・ミュージックはすぐ近所の14丁目にあった。そこでは中学生から大学生位のお客さんが中心にマリファナの煙に包まれながらたいてい一晩に3つのバンドの演奏を聴けた。 72年からは2つの金曜日のテレビ番組でまずバンドを知る事が多かった。
一つは夜の11:30から始まる『In Concert』。もう一つは夜中の1時から2時半までやっていた『Midnight Special』。この番組で初めてスティーライ・スパンというバンドを知った。女性シンガーのマディー・プライヤーが19世紀のドレスを着て、『Cam Ye O'er Frae France』を歌いながら、バラをお客さんに投げている所を見ると、次にレコード屋さんに行った時にすぐにスティーライ・スパンの最新のアルバムを買った。エレクトリック・バンドで中世ヨーロッパのモードで演奏される曲を聴くのは初めてだった。僕にはまるで中東やアラブの音階に聴こえていた。十代後半になるとこのような音の使い方が一番影響を受けた。 ピーター・ガブリエルのクスチュームとマイムのパフォーマンス付きでジェネシスの『Watcher of the Sky』や『Musical Box』も『Midnight Special』でやっていた。『In Concert』はテレビ番組というよりもコンサートのライブをそのまま見せるのが目的だった。オールマン・ブラザーズみたいに20分以上のアドリブ中心の曲をやると、途中でコマーシァルが入った。
アカデミー・オヴ・ミュージックで見た一番うるさいバンドはアージェントだった。
アージェントはロッド・アージェントというキーボード・プレイヤーを中心とした4人組みのバンドだった。ロッド・アージェントは『愛の季節』(Season Of Love)というヒット曲をゾンビーズという60年代のバンドで出していたが、70年代の僕の見た時は『NEXUS』というプログレのアルバムを出したすぐ後だった。
『NEXUS』の一曲目のインストの曲から始まったが、音があまりにも大きくてドラムが叩くとお腹がゲンコツでぶたれているようだった。もしかすると本番の前やサウンド・チェックの時に何かがあったのかもしれない。メンバーの顔つきはこれでもか、これでもかと言っているような妙な顔をしていた。僕はこの時は母と義父のマンスールと一緒に行っていたが、マンスールはこれはクレージーだと言って席から逃げ出してしまった。そして何度か席にいる僕に戻ってきては『耳がダメになるから出なさい』と言われた。
そうしない所を見ると耳にせめてティシューをつっこんでと言われた。このような事はレッド・ツェッペリンを見ようと他のどんなバンドでもこれ程の大きな音量のバンドはなかった。
この時のベースとドラムは1980年代の後半にキンクスのメンバーとなって、僕も何度か見たが、このような音量のライブはその後どんなバンドでも二度と見ていない。アージェントのこの時の音量は異常だった。
『NEXUS』の曲を中心としたプログレ・ライブの最後に彼らのヒット曲『Hold Your Head Up』と『愛の季節』(Season Of Love)をやった。 あまり知られてないバンドではTranquilityはよかった。
彼らはオープニング・アクトとして2回くらいアカデミー・オヴ・ミュージックで見た。
2枚のアルバムが出ている。一枚目のみが今が今CDとして発売している。それは一枚目のみにベースがキャラヴァンにも参加していたジョン・Gペリーが入っているという理由で出ている。
s Tranquilityはイギリスのフォーク・シンガー、ドノヴァンのマネージャーが作り上げたバンドだった。イギリス風のフォークやトラッドの香りをビートルズ風のポップス色にうまく料理されていた。彼ら全部の機材が盗まれたり、悲惨な目にあってから、消えてしまったバンドだ。リーダーのみはオリヴィア・ニュートン・ジョンという女性歌手に『フィジカル』という曲を書いて大きくもうけた。そして、リード・ギターをやっていた人はパスカル・コムラードというフランスの実験的なアヴァンポップスをやっている人のアルバムに参加していた。しかし、Tranquilityには独特のサウンドがあった。僕は今でも時々彼らのアルバムを取り出しては聴く。 写真を見ると1970年頃だったから許されたのかと思わせる物もある。マインのシンガーは黒い口紅をしてフィンガーネールも全部目立つ色に塗ってある。首飾りをいくつもかけてあって、女性用の洋服を着ているが、顔はとても男性的で、結果的にはバケモノのように見えてしまう。しかし曲もヴォーカルも素晴らしかった。 彼らのサウンドのナイーヴさはダニー・カーウインが中心になっていたフリートウッド・マックと似ている部分もあった。

10ccのコンサートはヴィンセント・プライスが台詞を話しているホラー映画からのテープから始まった。そしてヴィンセント・プライスが『Ships don't just disappear in the night, do they?』と言うと、このタイトルの曲で10ccの演奏は始まった。ゲスト・ドラマーにポール・バージェスを連れていた。途中でドラマーのケヴィン・ゴドレイが『Fresh Air for my Mama』を歌った時はポール・バージェスが一人で叩いていた。ケヴィン・ゴドレイのヴォカルは凄くよかった。メンバーの内でもっとも印象に残った。10ccはまだファーストアルバムのみがアメリカに出ていた次期だったが、『Worst Band in the World』も演奏していた。『Rubber Bullets』で彼らの演奏は終わった。前座の前座で短いステージだったが、この日で一番よかった。メインのロリー・ギャラガ-の印象も最後に出たのに残らなくなるほどだった。 ギタリストとしてはハンブル・パイを辞めたばかりのピーター・フランプトンはよかった。
まだハンブル・パイ時代のような長いギターのアドリブを弾く要素が強く、フランプトンズ・キャメルというバンドで何度もライヴを見た。彼のギター・プレイにはリリカルなフレーズが多かった。
ギターを歌わせていた。76年のヒット・アルバム『フランプトン・カムズ・アライブ』の頃になるとよりコンパクトで分かりやすくポップになるが、僕はその直前のライヴかハンブル・パイの次期のギター・プレイが好きだった。 ホークウィンドは2回見た。
『Space Ritual』(宇宙祭典)の時と『In the Hall of the Mountain Grill』の時。『Space Ritual』の時はレコード会社が大きくプロモーションしていた。一ページの広告で、『Space Ritual』のショーを下見するためにアメリカの青年を送ったら、こんなになって帰ってきたと大きな黒い字で書いてあって、メガネが割れた青年の写真が載っていた。
その広告は『なんだろう?』『でも凄いのに違いない』と思わすような広告だった。他にも"最後のサイケデリック・バンド"として紹介されていた。
Circusというアメリカの音楽雑誌では頭を洗濯機の中につっこんだような感じの音だと書いていた。この頃、ホークウィンドもドイツのアモン・デュールやカンもあまり好意的ではない批評をよくされていたが、それは同時にその存在が気になる感じの批評だった。
そんなに変っているのだったら、面白いかもしれないと思わす感じだった。
『Space Ritual』の時はマンというウエールスのバンドがオープニング・アクトをやっていた。
マンは『Be Good to Youself Once a Day』というアルバムを出したばかりで、少しグレートフル・デッドと共通点も見えるジャム・ロックのバンドだった。彼らの時はバンドが演奏している時の影が白いステージのバックに早いフラッシュのように移り変わるライティングを使って演奏していた。
40分くらいの演奏の後にステージのセッティングをやって、ホークウィンドの演奏が始まった。宇宙船が発射するような音から『Born to Go』が始まった。8ビートの強いリズムが激しく鳴り響く。
60年代のサイケデリックの時代よりライト・ショーはこっていた。動く宇宙の映像を含んだライト・ショーがステージの後ろのスクリーンに映し出された。ロック・プラネタリウムのような感覚だった。女性ダンサーのステイシアがステージのお客から見て左側で踊っていた。
ホークウィンドの音楽は常にエコー・マシーンの中にドラムやベース以外の全部の音がつつまれていた。曲と曲の間にボブ・カルヴァートがスペーシーな詩の朗読をしていた。『Sonic Attack』の朗読の時は2つのサーチ・ライトがステージの左右から回り始め、効果的だった。一曲は10分くらいで8ビートの強いリズムの刻みの上にソロがエコーに包まれて鳴っていた。
『In the Hall of the Mountain Grill』の時は左側の前から2列目だった。目の前にダンサーのステーシアとサックスのニック・ターナーがいた。ニック・ターナーはカエルのコスチュームをかぶったままダンサーのステイシアと一緒に左側でずっと踊っていた。ステイシアは1列目の人がマリファナを吸っているのに気が付いてお客さんの所にやってきて、お客さんからマリファナのジョイントを取って吸っていた。僕の目の前のお客さんはネコを肩の上に乗せたまま聴いていた。ネコもホークウィンドを聴いていた。映像にはアニメションも使っていた。ピンク・フロイドの『Saucerful of Secrets』のエンディングと似ている『Wind of Change』という曲もやっていた。
後にモーターヘッドというバンドを作ったレミーとサイモン・キングのリズム対が凄くよかった。メンバーが最初見た時よりも少し替わっていた。ボブ・カルヴァートがいなく、キーボードとヴァイオリンにサイモン・ハウスといった元サード・イヤー・バンドのメンバーが入っていた。
サード・イヤー・バンドはロマン・ポランスキーの映画『マクベス』を手がけた事で知られていた。サード・イヤー・バンドはオーボエ、チェロ、ヴァイオリン、エレクトリック・ギターとエスニックな打楽器と言う編成のバンドだった。今でも新鮮に聴こえる中世音楽にサイケデリックなインプロヴゼションが自然に合体したような不思議な音楽だった。 アカデミー・オヴ・ミュージックで見に行って、途中で帰りたくなったほどつまらなくなったのはアルヴィン・リーのソロにジェントル・ジャイアントが前座だったコンサートだ。ジェントル・ジャイアントはテレビ番組の『In Concert』で初めて見た。
その時は『オクタプス』というアルバムの曲をメドレーでやっていた。複雑なリズムの絡み合いが面白かった。コンサートの時は『In a Glass House』という当時の新譜の曲を中心にやっていた。
彼らの演奏はあまり長くなかった。ジェネシス、ELPやイエスのように強烈な個性は感じなかったが、それなりによかった。
アルヴィン・リーは元テン・イヤーズ・アフターのギタリストでハードなブルースをやっている時は格好良かったが、このツアーでは大きな編成のバック・バンドの前でクロッグ(オランダのサンダル)をはいて、リラックスしたアコースティク・フォークを演奏しだした。バンドのまとまりも悪く、退屈して来た。
お金払って見に来たのだが、最後までいる気にならなかった。その音楽と本人の個性が合わないのか、なにかが違うなという気になっていた。アコースティク・フォークで自分の個性を輝かせる人は何人もいるが、このバンドの前のアルヴィン・リーは残念ながら、そうではなかった。
音楽から訴え出る力がたりなかった。 大きな編成で楽しませるのが出来たのは『Shoot Out At The Fantasy Factory』というアルバムを出したトラフィックだ。
ステージの上には7人いた。トラフィックのヴォーカリスト、スティーヴ・ウインウッドはキーボードもギターも上手にこなす。僕は特に彼のエレクトリック・リード・ギターが好きだ。
エリック・クラプトンと組んだバンド、ブラインド・ファイスではクラプトンの方がギタリストとして注目浴びていたが、スティーヴ・ウインウッドも独特のサイケデリックなプレイをしている。
『Dear Mr. Fantasy』という曲は長年グレートフル・デッドもカヴァーしているが、スティーヴこの曲のギター・ソロには誰にも負けない独特のキャラクターが出ている。
この頃のトラフィックには南部のスタジオ、マッスル・ショールスのベースとドラムのスタジオ・ミュージシアンたちもメンバーとなり、アフリカ人のパーカッショニスト、リーボップともう一人のキーボード・プレイヤー、バリー・ベケットがメンバーとして参加していた。スティーヴは曲によってギターを弾いたり、ピアノを弾いたり、オルガンを弾きながら、ヴォーカルを取っていた。フルートとサックスのクリス・ウッドはこの頃アル中になり、酔っ払ったままステージをふらふらしていた。
ドラマーのジム・カパラディはタンバリンを叩きながら、歌ったりしていた。このスティーヴ、クリスとジムが中心のメンバーたちだが、この時期ではそれぞれがステージの上で好きにやっているという様子だった。曲も一曲が10分から20分と長くなっていた。これは、でも音楽にはとても自由な感じを与える事が出来た。このような状態では長続きは出来なかったかもしれないが、今聴いても1970年代の自由という時代の感じが伝わって来る。
スティーヴ・ウインウッドは1980年代にはグラミー賞も取り、より売れるアーティストになったが、僕は個人的にはブラインド・ファイスの時期からこの時期のトラフィックが好きだった。
他にもルネッサンス、ネクター、キング・クリムゾン、ウィシュボーン・アッシュやキャラヴァンなども70年代初頭にここで見た。 レコード店にはヨーロッパのロック・バンド、ゴング、カン、タンジェリーン・ドリームなどが並ぶようになった。僕はこれらのバンドに興味を持っていった。しかし、本当はこれらのバンドも解散や変化をする時だった。遅れて他の国に入っただけだった。 この頃、時代は行く所まで行ってから、いったんその要素が自然に消えたのかもしれない。1975年までは1960年代から始まったリベラルで自由な新しい社会を目指した文化がロックにも映画にもあらゆるジャンルのアートに影響を与えていた。しかし、それが世界的にも(と言ってもアメリカ、西ヨーロッパや日本の事だが)崩れてきた。この頃、色々なロック・バンドも解散したり、音楽のやり方が変わったりした。より商業的になって行った。そして気が付くと時代の雰囲気その物が変わってしまった。 1970年代の後半になるとメジャーな物はディスコになり、後はフュージョンとパンクがあった。

Renaissance
photo by Ayuo


Wishbone Ash
photo by Ayuo

75年の半ばからロックではクイーンが流行って来たが、最初は僕に取って違和感があった。モット・ザ・フープルの前座で演奏していた初めてのクイーンのニューヨークのライブでもまだそんなに受けてはいなかった。20-30人のお客さんがステージになんとなく見上げている感じだった。
クイーンの音楽には特に新しい事はなく、イエス、キンクス、レッド・ツエッペリン、ボウイなどそれまでの成功したロックのフォーミュラを分かりやすくしたように見えていた。
これが、しかし、それからのロックの主流になるのだった。
クイーンのキーボード・プレイヤーとしてツアーした元モット・ザ・フープルのモーガン・フィッシャーは75年以後のロックはだんだんサーカスのようなエンターテインメントになったと言っていた。

Ayuo in England 1986