現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「民族という幻想」


僕の行っていた学校では一人一人の生徒の両親は元もとは別の国や民族から来ていた。中国系、プエルト・リコ系、ドイツのユダヤ系、ロシアのユダヤ系、ウクライナ系、アフリカ系、日系、そしてそのコンビネーションの混血だった。
しかし、ニューヨークのヴィレッジのブリーカ―・ストリートの道路を渡った所にあった学校はカソリックでイタリ―系の人たちだけが来ている学校だった。学校の前に通るとイタリ―語が聴こえて来ていた。男女共学だったが、生徒たちはみんな制服を着ていた。学校の外にはマリア様がキリストを抱いている絵のステーン・グラスが飾ってあった。僕らの行っている学校とは違って、昔ながらのテキストを読んだり、祈りをしたりする学校だった。おそらく歴史の教え方も僕らの学校とは全く違っていただろう。僕らの学校にはボブ・ディランやピーター・ポール・アンド・マリーの子供たち、そして90年代になるとパティー・スミスの子供達が来ていた所でリベラルな考え方で進歩的な教育をする所として有名だった。新しい社会に変えてゆくにはまず新しい教育の仕方が必要だと思われていた。
隣りの学校は違っていた。
彼らの多くはそばのリトル・イタリ―という町から来ていた。リトル・イタリ―はマフィアに守られていた。そして隣りの学校に行っている子供たちは僕らの学校に来ている生徒たちをいじめるようになった。
僕が中学1年生の終わり頃にクラスの生徒一人一人が担任の先生と話す日があった。僕が一人で学校に歩いて行くと野球のバットを持ったイタリア系の男の子が道に立っていた。
『おい、持っているお金を全て出さなければ、このバットで頭をグチャグチャにしてやるぜ!』と彼は言った。
僕はポケットに25セントしかなかったが、彼に渡した。そして学校に行った。学校に行った頃にはこの事についてもう忘れてしまった。先生にも言うのも忘れた。
噂で一学年下の男の子がワシントン・スクエア・パークで数人のイタリア人の生徒たちに囲まれて殴られたりけられたりしたと聞いた。
中学3年になるとも少し激しくなって、大きなナイフを持ったイタリア人の中学生たちが僕らの学校で夜やっていたパーティーに入り込んでみんなをおどしたという話だった。その時は学校の先生たちもいたらしく警察を呼んだらしい。僕はその時いなかった。
イタリア人たちはたちまちギニ―という差別用語で呼ばれていた。ニューヨークではいくつかの人種や民族に対する差別用語があった。東洋人はみんなチンク。黒人は二ガー。ヒスパニック系はスピック。またモンゴロイドという言葉は英語ではもうすでにある種類の知的障害者の事だ。
イタリア人たちは僕らの学校にプエルト・リコ人がいるという言い訳で僕らの学校の生徒たちをおそうようになっていた。バーシュタインのミュージカル『ウエスト・サイド・ストリー』もイタリア人のギャングとプエルト・リコ人のギャングの話しだ。しかし、本当は彼らにも内心では“民族”というのはどうでもよかったはずだ。中学生や高校生の男子が変化してゆく年齢になって、カソリックだったから暴れるための何かの言い訳が欲しかったんじゃないかと僕は思っている。それからプエルト・リコ人とイタリア人は両方ともカソリックでラテン系の血が流れている。プエルト・リコ人にはアフリカ系の人も多いが、
南イタリアやシシリア島の人たちにも北アフリカの血が流れている。
いつも、似ているが、少し違うという人たち同士の方がこういう事になりやすい。それは大人になっても同じだと思った。ヨーロッパのキリスト教の色々な宗派も外から見れば、大きな違いではない所で戦争にも発展してしまう。勿論、影の権力の争いというのも否定できないが、それだけで国の人たちを全部巻き込めない。

作家の三島由紀夫は文章で、愛国主義というのは彼にとっては理解が出来ない考え方だと書いた。彼はそれは西洋のキリスト教の人類愛的な考え方から来ていて、古代ギリシャではAgapeと言っていた考え方から来ていると書いている。愛という日本語はAgapeの意味にも古代ギリシャではエロスと言っていた意味にも訳されて使われている。三島由紀夫はエロスなら分かると書いていた。エロスは日本語の恋と似ていると彼は思っていた。

僕は思うのだ。愛国主義も民族主義も西洋の民族国家を作った歴史の中で出来た考え方だ。ホモサピアンと呼ばれている全人類は全てアフリカのタンザニアの周辺から50、000-60,000年前に世界中に出て行った人たちだ。全ての人たちはつながっているが部族どうしの戦いや少し違って来た人たちへの差別で人々が分かれてきたと僕は思う。例えば黒人たちの間でアルバイノとして生まれる人たちがいる。アルバイノは色が白く、体も弱かった。アルバイノたちはアフリカの社会では差別されて、放り出されていた。差別されたアルバイノたちがアフリカを去って白人になったという説がある。

全ての人間には地球の最初の生命と同じRNAの記号を持っている。これは旧約聖書に書いてある、初めには言葉があったというのと同じである。
そして地球に最初の生命が出来てからその人が誕生するまでの全ての生き物であった記憶の旅をその人は持っている。僕も持っている。あなたも持っている。それは遺伝子の変化して来た記録である。そしてそれは本のように見られる時代になって来ている。

もう一つ科学者が分かって来た事は人間に民族や人種と関係なく、血液型等のちょっとした事がより大きな違いを作り出す。性格的な違いを見るにも勿論そうだが、病気、特にガンの治療には重要な知識だ。科学のジャーナリスト、マット・リドリーによると、ある実験では2人のスイス人の遺伝子の平均的な違いは、1人のスイス人と1人のペルー人の遺伝子の平均的な違いよりも大きかったそうだ。民族や人種よりも一人一人の違いの方が大きく、民族や人種主義は科学的に意味がない事が証明出来る。

こうした事がもっと一般的に伝われば、社会や政治も変わらずにはいられないだろう。

イタリア人とプエルト・リコ人の中学生のギャングは暴れるための言い訳が必要だった。それが民族の違いという現れ方をしていた。