現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「最初の音楽のレッスン」


僕はギターを8歳の時に始めた。その前には何も音楽のレッスンを受けた事はなかった。

母はシャンソンやフランク・シナトラが好きだったと思うが僕はほとんどそれらに興味はなかった。

ビートルズは4歳の頃に最初聴いた。ある時会話に“ビートルズ”という言葉が出てきた時、『ビートルズってなあに?』と僕は聞いた。
『知らないの?じゃ、今日町に出る時に買いに行こうか?』と母は言った。
これはスエーデンのストックホルムの側の町だった。町のデパートの店の中のレコード店父と母と一緒に行った。
『これがビートルズだよ』といって、4人のビートルズのメンバーが屋上で飛び上がっている4曲入りのEPを買った。
『ツイスト・アンド・シャウト』という曲が中心になっているEPだった。
その後ビートルズの『ヘルプ』というアルバムが発売された時もスエーデンで買った。その夜、父が出ている現代音楽のコンサートに行かなければいけなかった。その日の曲は特に難解な現代音楽の曲だったらしい。その会場でコンサートの最中、紙の上に英語でHELPという字を書いた誰かに渡してしまった。その人はその難解な曲が耐えられなくてHELPと書いたのだと思った。後でこれは笑い話になっていた。難解な現代音楽の曲は僕が4歳の時にどう聴こえたかというと音楽として聴こえていない。舞台の上で音をたてているが、その音は4歳の僕にとって意味は特になかった。例えば、ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん、ばん、ばん、ばん、という音がなっているとすると、それが音、あるいはコンセプトとして面白いと思っている人にとっては意味があるのかもしれない。4歳の子供にとってそれは伝わる物ではない。ビートルズには心臓の鼓動よりも少し早いビートがあって、コードのハーモニーがあって、人間の声で言葉が分かり易い繰り返しパターンの中で歌われている。クラシックのようにメローディーが決まった形式の中に収まっていなくても良いのだ。『ヘルプ』のボブ・ディランに影響受けた曲などにはメローディーが重要だったわけではなかった。ギターのコードとリズムとその上に語られる人間の声がエネルギーの固まりとして伝わって来る。4歳の子供にとってもそれは音楽としてコミュニケートされる。

ベルリンとニューヨークに住む間で日本で母や僕の両側のおじいさんとおばあさんと数ヶ月一緒に過ごした。その時に武道館でのビートルズの来日公演は見た。外国でのビートルズのライブ程ではなかったが、キャー、キャー意味もなく叫ぶ女の子が多かった。当時はロックのPAサウンド・システムもあまりよくなかった。VOXのアンプから音を出していたが、ちゃんと聴こえづらかった。一番印象に残った曲は『Paperback Rider』だった。この時の演奏は今やヴィデオやDVDで発売されている。

1968年に僕はギターを始めた。
僕はニューヨークに住んでいて、普通のニューヨーク市の学校に行っていた。
僕の両親はその68年から69年の冬に離婚する事になった。といっても、実際はお父さんは僕が4歳ごろだった65年から一緒に住んでいることは少なかった。
ヒットチャートではドアーズやジェファーソン・エアプレーンが流行っていた。
そのころ、ベトナム戦争に対する反戦運動が広がっていて、僕の学校の先生の大部分は学生運動をやっている世代なので、学校はストで閉まっていた。
学校が開いても、政治的な議論をする事と政治家に対する講義の手紙の書き方を中心に教えていた。いつも何事に対しても、必ずなぜ?どうして?と聞くように教わった。そしてアメリカの歴史のテキストは間違いだらけだと教わった。デモに小学生のうちから参加するように言われていた。普通の数学や科学の先生には興味がなかったので、ほとんどやらなかった。中学校にいって、割り算が出来ない事がそれまでの学校教育では普通ではない事が分かった。
ニューヨークは誰もが移民の町だから、同級生一人一人は違う民族の両親を持っていた。
僕が小学生から中学生の時の家族は日本人の母と再婚したアメリカ国籍のイラン人の父だった。イラン人の父の家族はイランでは宮廷の音楽家だった。彼は毎朝イランの古典音楽をシャワーの中で歌っていた。
68年頃、ある小澤征爾が指揮をするオーケストラのコンサートでイギリスのEMIレコードを代表するある白髪のいかにもイギリス紳士風の人と出合った。僕はギターを始めたばかりだと言ったところ、彼はEMIが当時売り出そうとしていた新しいグループだったピンク・フロイドの最初の2枚を僕にくれた。ほとんどの曲はシド・バレットが作詞・作曲をしていた当時ニューヨークではシド・バレットやドアーズやジェファーソン・エアプレーンは子供が聴くためのポップスだと思われていた。

僕にとって本当に音楽に興味を持ち出したのは1968年だった。この時、ロック・ミュージックはその時代で生きている人みんなにとって大きな意味を持つ事になった。
ジェファーソン・エアプレーンのレコード『After Bathing at the Baxters』はそのアルバムが発売された時から家にあった。両親のどちらかが買ったのだが、音楽に興味持って買ったのではなく、どんな物が流行っているか知りたくて買った物だった。
ある時ニューヨークのマンハッタン島に停めてあった大きな船に住む女の人の家に訪ねた時、その人の弟がジェファーソン・エアプレーンの最初の2枚をずうっとかけていた。ゆれている船の上で響くサウンドは美しかった。それからジェファーソン・エアプレーンをしょっちゅう聴くようになった。
この頃はまだヴィレッジに住んでいなかった。最初の一年は72丁目に住んでいた。その次の年は96丁目に引っ越した。しかし、この頃でもヴィレッジに来る事は多かった。日本から来た芸術家を連れてライブ音楽とDJとライト・ショーによるダンス・クラブだったエレクトリック・サーカスやジャズのライブ・ハウスのヴィレッジ・ヴァンガードやロックのライヴをやるフィルモア・イーストなどに行った。エレクトリック・サーカスではテリ-・ライリーのオルガンとサックスのパフォーマンスやモートン・サブトニックのシンセサイザー・ソロのライヴ演奏などもやっていた。でもぼくにとってはギターをやっている人がステージの上にいるとどうやってあのような音を出していたかを下からいつも眺めていた。曲の間のチューニングの時もじっと見ていた。
モンタレ-・ポップス・フェスティヴァルの映画を1968年に見に行った。ジェファーソン・エアプレーン、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスやザ・フーなどが出ていたこの映画を見た後にはギターをやりたかった。
それまで親は僕に楽器や音楽を習わせようとも思っていなかった。そのまま自然にほっとけば何とかなるだろうと思っていたか自分たちの問題で忙しすぎた。親の邪魔さえしなく、面倒な事がなければいいという感じがあった。


最初のギターのレッスンは簡単なGのコード ー 左手の3つ目の指を一弦目の三番目のフレットにおさえる。G7のコード ー 左手の1つ目の指を一弦目の一番目のフレットにおさえる。そして簡単なCのコード - 左手の1つ目の指を二弦目の一番目のフレットにおさえる。そして、それぞれをストロークして行く。それから右手の人差し指と中指で交互に一弦目を弾いて行く練習。これが最初のレッスンだった。

ギターの先生はスタンレー・シルヴァーマンというギタリスト・作曲家で当時エレファント・ステップスという市内楽オペラにロックと電子音楽を混ぜた曲を発表していた。この曲は後にCBSで録音され70年代の半ばに日本でも発売されていた。

小学三年生の頃はザ・フーなどのソングブックのコードのダイヤグラムを見ながら弾いていた。次の先生とは『禁じられた遊び』という映画の有名なテーマ曲の出だしや音階を勉強した。
小学四年生の頃にウイリアム・へラーマンという実験音楽の作曲家・ギタリストに習うようになった。この時はCarcasiのギター教則本を使った。

中学生になった頃はレッスンに行っていなかった。どうしてかは今となると覚えていないが、多分先生がヨーロッパにしばらく住みに行ったからだと思う。しかし、ギターは自分でずうっと弾いていた。
この頃、発見したある本は僕の弾き方を変えてしまった。それはステファン・グロスマンのオープン・チューニング・ギターの弾き方を紹介する本だった。オープン・チューニングとはギターの弦を何を押さえずに奏でる時にGのコードやDのコード、あるいはもっと複雑なコードにして弾くスタイルだ。ブルースのギタリストはよくこういうチューニングを使っていた。
この本ではマーチン・カーシーというイギリスのギタリスト・シンガーがイギリスの伝統曲を弾く時に使うチューニングも乗っていた。この本で紹介されていたマーチン・カーシィーのモーダルなチューニングは下の低い音の弦からDADGADだった。このチューニングを少し変えてDADGAEというチューニングを作って、80年代の半ばに『絵の中の姿』の一曲目『八つの頃に』を書いた。この曲はDADGAGAというパターンをずうっと繰り返しながら、その上に歌詞を歌いながら書いた。その言葉の感情一つ一つを大切にしながら、それを表現する事を中心に考えて書いた。聞き手にその感情が染み込むようにしたかった。
この本を最初に見た頃も色々なチューニングを自分で試してみた。そしてそれで曲を作り始めてみた。

1975年に初めて買ったジョニ・ミッチェルの『For the Roses』のソングブックはもっと大きな影響を与えた。色々なオープン・チューニングも紹介されている上に音楽もその歌詞の内容もより自分の言いたい音楽に近かった。

もう一つギターの弾き方で影響受けたのはギタリストではなく、ギターの先祖のような発弦楽器をいくつも弾くトーマス・ビンクレーの引き方だった。トーマス・ビンクレーはStudio Der Fruhen Musikという中世ルネッサンスのヨーロッパ音楽を演奏するアンサンブルのリーダーだった。最初は僕の父と一緒にベルリンにいた頃にStudio Der Fruhen Musikが再現した中世時代のカルミナ・ブラーナのLPがあった。中学校の頃に学校で中世時代の生き方の再現というのを学校でやってからその時代の音楽の興味が大きくなっていた。ちょうど1975年頃に日本のキング・レコードからStudio Der Fruhen Musikの初期のレコードがたくさん1500円シリーズで発売された。それらを一つ一つ買っていった。一番感動したのはこのシリーズからでたものではなく、Reflexeと言うレーベルに移ってからのいくつかのアルバムだった。