現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「記憶」


記憶というのは不思議な物だ。

子供の頃に一番最初の記憶はなあーにと聞かれるといつも最初飛行機に乗ってベルリンに行った時と答えた。そして中学の時の宿題で一番最初の記憶に基づく短編小説を書いて欲しいという宿題が出た時、初めて飛行機に乗ってベルリンに行く話をジョン・F・ケネディー大統領が暗殺された事件と混ぜてフィックションとして書いた。それはベルリンに着いた日の昼間にケネディー大統領が暗殺されたから、飛行機に怪しそうな人物がいたという事にして書いた。

しかし、その後、最初の記憶を思い出そうとするとどっちが本当に起きた事でどっちが僕が後で付け加えたフィックションか分からなくなってしまった。
飛行機には子供の僕にとっては初めて見るタイプの人たちも多かった。南回りで行ったらしく、中東を通って行ったらしい。それが記憶の中であやしい人たちになるのは難しくない。また、飛行機の中でサングラスをしているスーツを着た白人がいたような気がする。しかし、短編小説のフィックションを書く時には自分の頭の中でジェームズ・ボンドの映画からのイメージが混ざったような気もしている。そして元の記憶の上にかぶさってしまった。

よくしばらく会っていない人たちと昔の話をしようとしても記憶が違う事が多い。

僕は忘れたに違いないと勝手に言い出す人たちも何人も見ている。
本当はどちらかが忘れたのではなく、記憶というのはそれぞれが連想する時に使っているわけだから、その人にとって重要なポイントが中心に残る。

例えば、僕にとっては1969年に武満徹のアステリズムの初演を聴いた時はその音楽の印象よりも自分の両親の離婚を中心に記憶している。これは自分の人生にとって一つの大きなターニング・ポイントだったからで、その後の僕の話にこの事がなければ分からない物になってしまう。

僕にとっては両親の家族のメンバーもその時々の結婚や離婚に変っているから両親とも共通の記憶がない。
例えば僕の母は自伝を『コスミック・ファミリー』と言うタイトルで発表したが、ここに書いてある事彼女から見たストーリーで僕のストリーとも違う。父が60年代の初め頃について書けば、また違うストーリーになっているだろう。
最近の友達の間ではこれを黒沢明の映画『羅生門』で起きるような“羅生門現象”だと呼んでいる。

人はそれぞれ自分の物語りを持っている。
そして、それぞれの人たちはそれぞれの物語をパラレル空間の中で同時進行に経験している。


記憶という物は時間に沿って覚えている物ではなく、常に連想する時に使っている。

“今”という現在だけがそこにいる人たちにとっての存在している瞬間だろう。