現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「75年に東京に着くと」


75年に東京に着くと、父が羽田空港に迎えに来てくれた。彼はレコード会社からルー・リードの『メタル・マシーン・ミュージック』の解説を書かないと頼まれたが、断ったと言っていた。小杉武久さんの方がこういう音楽には向いているとレコード会社に言ったと言っていた。僕はルー・リードは好きなので、残念だと思った。
それから2ヶ月近くオーストラリアに行かなければいけないから、しばらくいないと言われた。6月の半ばから8月までは義母のカレンとハーフ・ブラザー(父と義母の息子)の葉弥と一緒に過ごす事になった。
この時、カレンは大学院に通いだしていて、高輪の方でマンションを借りているという話だった。ソフィア・ユニバーシティー(上智大学)でアジアの歴史と文化を勉強していた。
付いてから2-3日後、まずはヤマハのアコースティック・ギターを一つ買った。

スティーヴ・レイシーと小杉武久と高橋悠治三人の即興演奏のレコードがコロンビア・スタジオで録音される事になっていた。スティーヴ・レイシーはフランスに住むアメリカ人のジャズ・サックス奏者だった。このレコーディングを見に行った。大きなスタジオでレコーディングを見るのは初めてだった。レコード会社の大きな部屋で三人がそれぞれ自分の演奏するスペースを取っていた。悠治さんはグランド・ピアノの所にいたが、小杉さんはテーブル・クロスをしいて、その上に茶碗、コップ、グラス、キッチンで使う色々なものを置いていた。その上に自分のヴァイオリンと声を出すためのマイクがあった。小杉さんのヴァイオリンと声が特に面白かった。ヴァイオリンを自分独自のチューニングにしていた。多分GDGDのようなチューニングだったと思う。(普通ヴァイオリンはGDAEと調弦される。)まるでオープン・チューニングのブルース・ギターのような弾き方だった。表現がロックやブルースと同じ心の物だと思った。これがロックの人ではない人から出ている事はびっくりだった。他の人たちの音はもっと無調性の音楽での表現で当時の僕には少し難解に感じた。この時に小杉武久さんの音楽に大きく興味をもった。一日で3つの即興演奏の曲を録音していた。

カレンと父が一緒にいた時はしょっちゅう夫婦ケンカをしている事が多かったが、この2ヶ月は平和だった。3人で福井県の勅使河原宏さんの持っている陶器を作る所に行って、陶器をいくつか自分たちで作った。
父がオーストラリアに行った後にカレンから実はカレンと父はその冬すでに離婚をしていた事を知らされた。僕はニューヨークでの状況の事も話した。母がイギリスに行ってしまった事も手紙があって分かった。
義父のマンスールからも手紙があった。彼は僕がニューヨークに帰ったら、母もイギリスから帰るのではないかという内容だった。僕は義母のカレンに相談した。もうそのような状態だったら。日本にいた方がいいんじゃないという返事をしていた。
父が戻ってから横浜インターナショナル・スクールとアメリカン・スクールを見に行った。そして、横浜インターナショナル・スクールに2年間行く事になった。

カレンは当時一人で高輪に引っ越して、上智大学の大学院でAsian Studiesを勉強していた。そして広島と長崎の原爆について長いエッセイを書いた。高橋悠治さんはこのテキストを読んで、その声を電気的に変調する曲をテープで録音した。作曲家の三枝さんが主催したMedia 3というフェスティヴァルでこの曲をテープでかけながら、これに合わせた写真のスライド・ショーを見せた。高橋悠治さんとハーフ・ブラザーの葉弥が広島を歩いているスライドがスクリーンに映された。

1975年の終わりにカレンはフィリピンで音楽人類学を勉強しに行くと言って留学した。カレンの住んでいた高輪のマンションに悠治さんと葉弥と僕で引越しした。僕は横浜インターナショナル・スクールに通いながら、夕方は葉弥を保育園で迎えに行った。
高橋悠治さんはまだピアニストとして活動が多かった。コロンビア・レコードでバッハ、サティー、メシアン、クセナキスなどのアルバムを次々と録音していて出していた。この頃、コロンビアのクラシックのディレクターに彼のファンがいた。しかし、そういう活動にもう飽きてきていた。何かまたここでも大きな変化が訪れるのだった。
家には政治的な活動をする人たちが多くくるようになった。僕に生活自体はまだ学校が中心だったので、具体的にどういう人たちでどういう心の動きでそうなったかは分からなかった。しかし、アジアの連帯と反米主義を語る人たちが多くなって行った。その間、僕はアメリカとイギリスの子供たちが行くインターナショナル・スクールに行っていた。

コロンビア・レコードはこの頃、イギリスのヴァージン・レコードのアーティストたちを売る契約を持って、ゴング、カン、スティーヴ・ヒレイジ、タンジェリーン・ドリーム、ファウストなどを売ろうとしていた。しかし、日本で当時全く売れなかった。ロックはまだ日本ではメジャーな物ではなかった。どうしても歌謡曲だった。ファウストはセールスが100枚。ヘンリー・カウは56枚。このような数字だった。つまり大赤字。これらのアルバムに日本語のライナー・ノ―ツを書いていた間章というミュージック・ライターは当時、小杉武久のマネージャーでもあった。彼は僕に会うとそれらの音楽について詳しい事を知っていると気が付いてくれた。コロンビアに僕にもライナー・ノ―ツを書くと良いと言ってくれた。そこで2つの話が来た。一つはタンジェリーン・ドリームの最初の4枚の再プレスに僕と高橋悠治さんとの対談が載った。もう一つはカンの『Unlimited Edition』と言うアルバムで僕と間章が対談をして、曲の解説を頼まれていた。もうすでに英語では解説を書いていたが、カンはあまりにも売れないという理由でレコード会社が出すのを止めてしまった。
この頃、キーボード・プレイヤーで当時まだ芸大に行きながらスタジオ・ミュージシアンをやっていた坂本龍一もよく来ていた。コロンビア・レコードはジャズ・ドラマーの冨樫雅彦と高橋悠治のジョイント・アルバムを企画した。そのため高橋悠治さんが作った曲は僕が中学生の時にレポートを書いたヴェトナムのホー・チ・ミンの詩集から『Twilight』という詩からイメージを広げたものだった。
このアルバムのレコーディングをコロンビアのスタジオで見に行った。録音は夜遅くから始まり、夜中に終了した。坂本龍一もこの曲に高橋悠治さんは誘った。彼はまだヒッピー風の格好をして、ヒゲを生やしていて、『まだ今日は何も食べていない』と言いながらスタジオにやって来た。コロンビアのディレクターは近くのレストランでコロンビアに付けて食べてよいと彼に言った。
この曲『Twilight』は20分くらい長く、高橋悠治さんと坂本龍一の弾くフレーズがくねくねからむ即興的な曲になっていた。途中で高橋悠治さんは片手でドローン(持続低音)を鳴らしながらフレーズを弾くつもりだったが、両方いっぺんにうまく出来なく、ファースト・テイクは途中で終わってしまった。そこで僕にその持続低音を弾く役目をしないかと誘った。これは僕に取って初めてレコーディング・スタジオで録音した音だった。

1975年頃、ヴァージンから出ていたロック以外にも一番聴いていたのはヨーロッパの中世音楽とスティーライ・スパンなどだった。
トーマス・ビンクリーのTroubadour, Trouveres, Minstrels (ドイツのTeldec 4509-97938-2)やドイツのReflexeレーベルから出たピーター・アベラール(Peter Abelard)などの一連のアルバムはどれも名作だ。インド音楽のようなモードとポルタメント、中央アジアのカザフ族のタンブールの音楽などと同じ奏法で弾くチタール。時代としてもこれらは60年代から70年代初頭に録音されていることも影響していたかもしれない。60年代のモーダル・ジャズやそれらの影響を受け継いだサイケデリック・ロックも中世から伝わるモードで長い即興演奏を録音していた。70年代にトーマス・ビンクリーが録音したアルバムにはこの時代のロックやジャズと同じ感覚が伝わって来る。10分間の持続低音(ドローン)とモードの演奏やメロディーに対する装飾音符の付け方や太鼓のビートの上にのるリフには当時のロックとジャズと似たものを感じさせる。女性ヴォーカリストのアンドレア・フォン・ラムの甘い歌声は中世の曲を現代に生き返らせていた。僕はトーマス・ビンクリーのアドリブが多い独特のリユート、チタールや中世・ルネッサンスのギター系の撥弦楽器の弾き方に大きな影響を受けた。

ウイーンのクレマンシック・コンソートもこの頃面白い中世音楽のアルバムを出していた。最初はヴァージンのロックのアルバムと同じくコロンビア・レコードのディレクターから『カルミナ・ブラーナ』をもらった。これは鎖を壁に叩きつけながら歌う男性コーラス、ハーディー・ガーディーの持続低音(ドローン)を鳴らしながら、ビートの上に力強く歌うハンガリー人のルネ・の演奏、千夜一夜の舞踏会にも出てきそうな管楽器、弦楽器、ルュートとパーカッションのアンサンブル。一つ一つの曲のそのアレンジの仕方は僕にとって刺激的だった。Cantigas De Santa Maria (聖母マリア曲集)と中世の吟遊詩人、Troubadoursの曲をまとめたCD(フランスのハルモニア・ムンディHMX2901524/24)も彼らの1970年代の名作だ。これにはイランの打楽器奏者も関わり、ペルシャの伝統的なリズムの上で演奏されている曲がいくつも入っている。ペルシャ、アラブ、ギリシャや北アフリカのミュージシアンたちが宮廷音楽家としてスペインに居た時代の絵や記録を基にイマジネーションを発展させて作ったものだ。

スティーライ・スパンはイギリスのフォーク出身のミュージシアンたちが作ったエレクトリック・バンドだが中世音楽のモードで歌っている曲やルネッサンスのハーモニーで歌う曲も多かった。そして歌詞の物語が面白かった。『King Henry』はスコットランドの歌で、美女と野獣の男女がひっくり返った物語、王子と女野獣になったストーリーを中世のモードで歌ったものだった。『Two Magicians』はヨーロッパのキリスト教以前の宗教儀式の時に歌われた伝統曲だった。ヨーロッパの昔の宗教を信仰する人たちは中世時代には魔女として迫害されていたので隠れて歌われていた。言葉を見るとヒンズーの神話ともギリシャ神話ともそっくりのところがあった。その不思議さに好奇心を覚えて、もっと色々な世界神話の共通点を調べたいと思った。

僕が横浜のインターナショナル・スクールの高校に行っていた2年目に学生とオーケストラが一緒に演奏するコンサートYoung People’s Concertで曲を書いたら演奏してくれるという話が決まった。
僕自身はそれまでオーケストラどころかアンサンブルもピアノにも曲を書いた事がなかった。中世ヨーロッパの吟遊詩人の歌3曲に基づいた曲を書く事にした。ウォルター・ピストンの書いたオーケストレーションの本を片手に中世音楽の曲を見ながら書き始めた。3つの変奏曲を書いてみた。
出来ない事はなかった。しかし初めてだったので、次の機会にはもっとうまく出来るだろうと思っていた。未だに次の機会はまだ僕に来ていない。

1976年の夏に父と一緒にオーストラリアに行く予定だった。まずはフィリピンで葉弥を、彼の母のカレンの所に、つれて行ってから行くはずだった。だがフィリピンに着いて数日たつと悠治さんは『オーストラリアに行きたくない』と言い出した。『オーストラリア人はみんな変だ』と言って。『スウェーデン人もみんな変だった』と言った。日本に帰ると言い出した。カレンとケンカになった。『葉弥も日本に連れて行ってくれ』とカレンは言った。
反米主義の左翼思想にはカレンも正しいと思っている部分もあった。学生運動が流行っていた時代のアメリカの多くの人たちにとっては流行りの一つでもあった。しかし、時々突然お酒を飲んで酔っ払ってから『私がアメリカ人だから嫌いなんだろう』と叫びだしてナイフを持ち出す時があった。こう言う時はいつも突然で予想外の時に起きた。そして普段のカレンとは別の人間に変っていた。たまっているものが一期に爆発するのだった。僕自身はカレンが日本に来るまでこうなったカレンは見た事がなかったが、アメリカでも離婚した複雑な家庭で育っていた。日本に来るまでは学校が休みの夏か2週間の冬休みにしか父とカレンを会う事がなかったから、その時どうだったかは分からない。

1977年の終わり頃には高橋悠治さんの仕事は政治集会でやるばかりになっていた。美恵さんの実家のすぐそばの新しい家に引越しをする時に一人で住んだらどうだと言われた。『美恵さんには僕を面倒見る義務はない』と言っていた。葉弥はちょうど小学生になる時だった。それから少しして、高橋悠治さんは美恵さんの実家に葉弥と一緒に引っ越した。僕は1978年の初めから一人で住みだした。高橋悠治さんと一緒に住む事はもうなかった。