現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「タジマハ−ル旅行団」


70年代の半ばまでは日本に面白いシーンがあった。それが少しづつ70年代の後半になって、変ってしまった感じがしている。 作曲家・ヴァイリニスト・ヴォイス・パフォーマーの小杉武久と彼がやっていたタジマハ−ル旅行団は60年代から70年代の時代の雰囲気にぴったりだった。それぞれのプレーヤーたちはエコー・マシーン(現在のディレイ)を使いながら長い宇宙的なインプロヴィゼーションをやっていた。初期のピンク・フロイドや初期のグレートフル・デッドのフィードバックを中心としたインプロヴィゼションと似ているところもあった。実験音楽の中にインド音楽の要素もあれば、ロックの要素もあった。海辺で一晩中演奏することもあった。お客さんも演奏者も自由にやっていた。好きな時に演奏して、途中でやめてご飯を食べに行ったりしていた。生活とともに音楽が響いていた。誰も急いでいなかった。60年代の自由でのんびりした時間の感覚の上に音楽が出来ていた。

インドの瞑想で使う言葉AUMを何人かで唱えながら、その響きの中の一つ一つの音が体中に響き渡った。コントラバスをやっている人はずうっと弦を押さえずに指を弦の上に動かしながら、ハーモニックス(自然倍音)の音をエコー・マシーンを通して出していたシンプルながら効果的な即興演奏の方法をいくつも知っていた。 ある夜、小杉さんが中目黒で住んでいたアパートに泊まった。彼はお茶を入れる時に二人しかいなかったのに5つの茶碗にお茶を入れた。

『どれを飲んだらいいの?』
『さあ、どれからにしようかね。』
朝起きるとインターナショナル・スクールに遅刻していた。
彼は水を入れるホースを笛みたいにして吹いていた。
『しまった、遅刻だ。』
『心配するな。僕は学校なんて毎日遅刻していた。』

彼は何人かに教えていた。その生徒たちはEast Bionic Symphoniaというグループを作った。向井千恵さんもそこに参加していた。しかし、時代は変わって来ていた。60年代のようなユートピア的な夢がだんだん崩れてきた。人もそうのんびりと一日中ビーチに座りながら音楽を聴く事をしなくなってきた。現実的な生活に忙しくなってきた。さらに自由に生きていける人もいれば、そういう生き方が合わない人たちもたくさんいる。お互い昔から知り合いの村ではどう生きていったら良いのかというルールを長年の伝統の中から作られるかもしれないが、知らない同士の人間は集まるとそうはいかない。長年の違う伝統は表面には出ていない。結果は人間不信になりやすい。

76年に小杉武久さんはニューヨークに引越しする事にした。僕がニューヨークを去った75年は一つの時代の終わりでもあるような気がした。彼の持っていたエコー・マシーンや色々なエフェクターは僕の部屋に置いていった。僕はそれらの機械を使って色々な曲を録音し始めた。ギターで中世ヨーロッパのモードを使った即興演奏も録音した。それから人の詩を使って新しい曲を作り出した。この機材で78年に録音して、未だにライブで演奏している曲ではエドガー・アラン・ポーの詩につけた『アナベル・リー』と言う曲がある。他には後でアルバム『Nova Carmina』(1986)で録音した『Across the Seasons』と言う曲もある。ギターのチューニングを普通の調弦(EADGBE)からDADGBDやDADF#ADやDADGADなどに変えたオーペン・チューニングを使って、世界の色々な伝統的要素を含んだスタイルを作っていった。(本当はそのスタイルをキープしながら、その上に新しい要素を足しながら音楽を作れて行けたら良かったのだろうと後で気が付いた。しかし、このような音楽を広げて行く方法が見える人とはこの当時出会わなかった。)最初作る音楽とは最初の言葉のように自分のルーツでもある。自分のルーツを大切にしなければ、その上にくるものも混乱してしまう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケールはいつも困った時にはヴィオラに戻れると言っていたが、僕にとってはいつもギターに戻れる。