現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「ハードロックとドラッグによるバンドの崩壊:1979」


1978年に僕は高校を辞めるように父から言われた。政治運動に興味を持ちだしていて、ピアノをもう弾きたくないと言い出していた。集会で大正琴を弾いてよくて1万円をもらえるかもらえないかの生活を始めていた。そして、お金がなくなっていった。その内、社会活動を自分のグループがやっていくために寄付をお願いするといった手紙も書き出していた。断った人も多かった。ピアノを弾ければ稼げるのに何故そんな事をしているのか僕にも色々な他の人にも理解出来なかった。ただ彼の母は人や社会の為になる事をやろうとしていると微笑んだ感じで見ていた。もしかするともっと深い心理的な事があったのかもしれない。1978年に僕のお爺さんは階段から落ちて突然亡くなっていた。彼は最初は音楽評論化でヨーロッパの新しい音楽を紹介したりしていた。『音楽』と言う雑誌を作って、バルトークなどのヨーロッパの作曲家たちとも文通していた。戦前プロレタリアン文学などが知的階層に流行っていた頃、彼は左翼的な活動もしていた。

たまたま知り合った数人とアドリブの音楽を録音したりしていた。別に同じ音楽を目指していた訳でもなかった。ただ、学校などに行っていないと知り合える人も限られる。一人は邦楽に興味を持っていた。尺八をやっていた。一人は現代音楽のピアノに興味持っている人だった。もうもう一人はヴァイリンをやっていた。尺八をやっていた人を抜かすと2人は僕の父の事を知らなければ知り合う事もなかった。 当時は70年代の色々なアングラの演劇や音楽シーンが終わりかけている時だった。僕の借りていた小さいアパートには小杉武久が置いていったエコー・マシーンやフェイザ−といった音楽の楽器にエフェクトを与えられる装置があった。それを使って録音を始めていた。 この頃、作った曲では後に『サイレント・フィルム』の時に録音した『アナベル・リー』や『Nova Carmina』の時に録音した『Across the Seasons』などがあった。
また世界の色々な伝統音楽のレコードを買っていて、そこから色々な手法を学ぼうとしていた。この頃に中央アジアのカザフ族の発弦楽器のアンサンブル音楽を聴いて、その方法論を自分なりに取り込んだピアノ曲を書いた。このスタイルをもっと発達させたのが1997年頃に書いた『ユーラシアン・タンゴ』。この曲はアコーディオン奏者の御喜 美江、高橋アキ、高橋悠治、ノルウエーイのエレン・ウグリック、ニュージーランドのロス・ケリーなどいろいろな人が演奏してくれるようになった。今のところでは僕の書いた作品で一番多く人に演奏されている。

ある時、即興演奏のワークショップをやるからこないかとライターとして知っていた人に誘われた。高田馬場のスペースに行くとそこには灰野敬二、向井千絵、Kasamaki Takashiなどがいた。ノイズっぽいインプロヴィゼーションをやっていた。向井千絵は灰野敬二があまりにも大きな音にアンプを上げる物だから自分の胡弓の音が聴こえないと言っていたのが覚えている。

僕はヴァイオリンをもっていって、小杉武久とちょっと近い感じの弾き方をしてみていた。まずヴァイオリンをギターのオープン・チューニングのようにADADという風に合わせていた。そこでスライドしながら音をとっていた。そうすると小杉武久のグリサンド・ヴァイリンとゴングと言うバンドのデビッド・アレンのグリサンド・ギターみたいな音になっていた。
また次の週にも同じメンバーで集まっていた。その時に灰野敬二さんがどんどん僕に近寄ってきて、アドリブの交換を始めた。彼は喜んだ顔をしていた。僕の演奏はロックぽかった。僕にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやジェファソン・エアプレーンの一番サイケデリックだった時期を思いだした。その後で話に行こうと誘われた。話して見ると同じ中世ヨーロッパの音楽が好きだったり、僕が小学生から中学生の時に聴いて来たバンドが好きだった。これはめずらしかった。そして新しいバンドを作ろうとしているが一緒にやらないかと誘われた。 最初はベースをやらないかと聞かれたが、僕はリード楽器の方が表現出来ると思っていたから、彼がギターならばヴァイオリンのままでやってみたいと言った。2人だけギターとヴァイリンで練習を始めていた。その内ドラマーの人とセッションするようになった。彼はそれまでドラムをやった事がない人だった。ヴォーカリストだった。またマジカル・パワー・マコという後にはプログレシヴ・ロックで伝説となった人を音楽的にもプロモーションも手伝っていた事があった。そこで2人は知り合っていたらしい。
ドラマーの家で八時間練習などもやりだしていた。しかし、灰野敬二はその頃ハードロックをやりたかった。エイト・ビートでAAAA/FFFF/AAAA/FFFFとギターでコードを刻みながら歌う曲を書き出していた。そして、やはりベースを入れたロック・バンドにしたかった。
これ以外にもキァプテン・ビーフハートと中世ヨーロッパのランディーニーのような揺れ動くリズムを中心とした即興演奏もしていた。こういうのは他になく、面白かった。 その内ベース・プレーヤーを誘ってきた。彼は僕ぐらいの年齢だった。本当はギタリストだったが、彼の自分のバンドをしばらく止めて、成功するバンドを一緒に作ろうと彼に誘った。最初、あまり乗る気ではなかった。一緒になんどかリハーサルをやっている内に辞めたいと言うようになった。僕自身ともそんなに合う訳でもなかった。『だったら、ベース以外の楽器をやっていいよ』と灰野さんは言った。彼はチェロをやってみたいと言い出していた。『いいよ。いろんな楽器でやってみよう』と灰野さんは言った。ユ−フォーニウムとギター2つ(彼がユ−フォーニウム、僕と灰野さんがギター)で練習もしてみた。しかし、やっぱり何とかハード・ロック・バンドを基礎の上に成り立つバンドに灰野さんはしたかった。
灰野さんは全員マーシャルのアンプを買うべきだと言い出していた。一人20万円で買えると言っていた。ドラマーは時間がかからなく、お金を早く稼げる方法を知っていると言っていた。それは何かは僕らには言わなかった。(後でびっくりする形で分かる事だった。)僕には20万円というお金は稼げる方法も知っていなければ、ハード・ロックで使うマーシャルのアンプも必要がなかった。灰野さんとは音楽の趣味は合っていたが、当時の僕にはハード・ロックをやる興味もそんなになかった。みんなマーシャルのアンプを買うのだから、僕が買わないのだったら、一緒にやって行けないなと灰野さんは言った。彼は耳のつぶれるような大きな音でバンドをやりたかった。しかし、ぶっとおして何時間も大きな音で練習してくると疲れてくる自分が気が付いて来た。それからこのバンドの音楽は灰野さんのアイディアでやっているものだった。作曲をもう少し勉強して、自分の音楽をやりたかった。ある日、ミーティングをして、僕は辞める事にした。ドラマーは辞めないでくれと僕に言った。この2人だけでやって行くとどんな音になるか予想できるから、僕がいた方どうなるか分からなくて面白いと言っていた。彼は僕の為に大きな音の中でも聴こえるようなピック・アップ・マイクを僕のために彼の公房で作っていた。ベーシストは別に僕に最初から興味はなかった。僕は辞めると言った。当時まだ18歳だった。まだ色々習いたい事があると思った。

その頃、向井千絵、河原淳一などと即興演奏もしていた。
吉祥寺マイナーというライブハウスとスペース・ジョラというライブやダンス・パフォーマンスをやる場所があった。吉祥寺マイナーは20人ぐらいのお客さんが入る小さい汚いライヴハウスだった。他の店ではやってなかったノイズ系のロック、フリー・ジャズ、フリー・ミュージックや即興演奏を中心にやっていた。灰野敬二、工藤十里、などもよく出ていた。お店のマスターの佐藤さんもドラムやキーボードをやっていた。後には伝説的なアヴァン・ギャルドの店になったが、当時はせまい暗いスペースで叫び声のような音とノイズで出来た音楽が毎日鳴っていた。

ある日一緒に即興演奏しないかと頼まれて店に行った。一日に5つぐらいのラインアップを出していた。最初のアクトはもう始まっていた。スペース・インヴェーダー・ゲームのような音が耳がつぶれそうな大音響で鳴っていた。音も殆ど歪んでいてつぶれていた。そしてお客さんが誰ももいない所で一人でマントを付けてシンセサイザーの前で飛び跳ねている男がいた。それを見た瞬間疲れた。何故そういう事をやる必要があるのかが分からなかった。日々のストレスでやっているのだろうか?それだったら僕は他人のストレスの叫び声をわざわざ聴きたいとは思わない。何か伝えたい事があるのだったら、それが分かる形で聴きたかった。音楽に対するルールがあいまいな人がノイズを出すとただそれだけになってしまう。自分が出る番まで店の外の階段のそばでその音に疲れないように休んでいた。それでも自分の番になっても疲れた静かな演奏しか出来ないような気分だった。実は最初にシンセサイザーを弾いていた男は本当はクラシックピアノを子供の頃からやっていて、ある作曲の大学生が譜面を持って来ていたら、リストの曲をちゃんと弾けていたという話だった。ここでは何人もちゃんと弾けるが全くノイズしか弾こうとしないという人たちがいた。工藤十里もちゃんとピアノを弾ける人だった。勿論中には全く弾けない人もいた。ノイズしか出せないから、ノイズを出している人もいた。時々、あの人も本当はちゃんと弾けるのに違いないという噂がた立つ事もあった。後で実は本当にノイズしか出せない人だとバレタりした。 この場所で知り合ったミュージシアンが次に一緒にやる事も多かった。僕も1979年中は何度かやっていたが、その内疲れてしまった。

ある日、大木さんというギタリストが自分のバンドが解散してしまったが、京都大学の西武講堂でライブが決まっているから何人かで行かないかと誘った。みんなで車に乗って行った。運転出来る人は交代で運転して行った。一晩かかって着いた。休んでいいという部屋に案内された。それから会場に行った。 関西の方では三つバンドが出ていた。町田町蔵のやっていた"いぬ"、Phewやビッケがやっていたアント・サリーとウルトラ・ビデ.アント・サリーは凄くよかった。終わった後すぐにレコードを買ってしまった。一緒に行ったメンバーたちに笑われた。なんであいつらの買ってんだよと言う感じだった。 僕らは最後に出た。向井さんはステージの真ん中に座り込んで、ひたすら自分の胡弓の音にかたむけて弾いていた。河原君は気が向いた時にクラリネットを吹く人だった。ゴーっというドローンの音がひたすら聴こえているような演奏だったような気がする。もしも、僕がお客さんだったら、聴きたくないような演奏だった。 後にPhewはある雑誌でこう言っていた:

どんなものかなと思って見ていたら、浮浪者みたいなキタネーのばっかり出てきた。ゲーと思った。それで何をするのかと思ったら、ユカや壁をトントン叩き始めて、もうしょうもないと思って、トイレに行った。 演奏が終わった次の日みんなで車で帰った。その後でギタリストの大木さんは向井さんをよく誘うようになって、向井さんをリード・ヴォーカリストとするステレオスというレゲエ・バンドを作った。彼は向井さんに熱を出していった。彼女は答えなかった。ある日、ヒステリックになって、ギターの弦を全部ギターから外して、もう二度と弾かないと言った。それから、音楽をやらなくなった。当時ノイズというユニットをやっていた、工藤十里というギタリスト・キーボード・プレヤ−はこのように言っていた:『初めて大木さんに会った時彼は世界一うまいギタリストじゃないかと思っていた。でもニューヨーク何かに行くとうまいギタリストなんてごろごろいるもんね。』 それから数年後、僕がこわれたカセット・プレイヤ−を直すためにフォステックスと言う会社に電話して名前を言ったら、電話に出てきた人が『ああ、大木さんから昔君の事を聴いていたよ。そういえば、彼自殺したの知っている?』
『ええ?』と僕は驚いた。
『ビルの下で発見されたんだ。』
僕はショックを受けて、一緒にあの時、京都に行った河原君に電話をした。
『へえ。信じられないな。彼に出会わなかったら、僕は音楽なんてやってなかったな。』と彼は言った。

1979年に戻ると、灰野さんたちは三人で福生の小さなライブ・ハウスでデビュー・ライブをやった。当時の僕の友達が見に行っていた。どうだったと聞いたら、2時間ぐらいチューニングするだけにかかっていたぜと彼は言っていた。内容についてはあまり話してくれなかった。 その二週間後、灰野さんから電話があった。今度の吉祥寺マイナーでのライブを一緒に出ないかと言った。断る必要もないからいいよと僕は言った。それから僕の持っているエコー・マシーンを持ってきてくれないかと彼に頼まれた。彼のヴォーカルに使いたかった。ドラマーは僕のために作っていたピック・アップ・マイクが出来たから、それを僕にあげると言っていた。マーシャルのアンプは買ったかと聞いたら、買ったと言っていた。
その夜のライブのお客さんが取ったテープは後に色々なところでコピーされて渡り歩くようになった。その二年後、関西で僕はこの日の夜のテープを見て、聴いた。
その夜、ベースの人の様子がどうも変だなと思った。ライブが終わった後、床に転がって一人で笑っていた。そうした様子は僕が10歳の時にグレートフル・デッドのライブをサン・フランシスコで見た時、LSDをやっている隣りに座っているお客さんがずうっと笑いが止まらなくゲラゲラ笑ったままライブを見ているのを僕は思いだした。

このライブの二週間後、ある朝、当時の友達から電話があった。
僕はまだ寝っころがっていた。
『やあ、昨日の夕刊の新聞見たかい?』
『いいや。どうしたの?』
『知らないの?』
『何が?』
『新聞の夕刊に前衛ミュージシャン麻薬の売人として捕まるって書いてあってさー。あのドラマーが捕まったんだよ。ヘロインの売人として生活していたんだよ』
『ええ?』
その時、ああそうか、時間がかからなく、お金を早く稼げる方法というのはこの事だったのだとひらめいた。
『それでさー。あのベースの奴もやっていてさー。やりすぎて、血をそこら中に吐いててさー。』
『ええ?』
『他に彼が売っていたミュージシァンも全員捕まったんだよ。かなり大勢捕まったんだよ。福生中のバンドが捕まってさー。"Z"と言うバンドは全員捕まったって話だ。この数年で一番大きなドラッグの逮捕だってさ。新聞の最後のぺージに一面写真入りで乗っているよ。』
『灰野さんは?』
『彼は全然知らなかった。』
『僕も全然知らなかった。』
それから一ヶ月ぐらいして、灰野さんから電話があった。
『最近、何をしているの?』
僕は色々習い事をしていると言った。薩摩琵琶も習い始め出していた。
その頃、バンドの音楽はしばらく休みたかった。

それから二年後、どこかで、また灰野さんと会った。
僕は聞いた『そういえば、あの時、買ったマーシャルのアンプはどうした?』
『家につんである。大きくて、車がなければ、持って行けないからね。吉祥寺のギァティーだったら転がして行けるかもしれないけど。』

そして、さらに二年後。勘違いでサティーのピアノ曲をプレイヤー・ピアノに打ち込む仕事をやった事があった。その発表はインクスティックという六本木のライブハウスとバーが一緒になったようなところで行なわれた。サングラスをかけた人が僕の隣りに座っていた。終わった後にその企画者は僕に言った:『君の隣りに座っていた人、昔、灰野さんや君と一緒にやっていなかった?彼こないだ刑務所からやっと出てきたから、この仕事のステージのセットの作りを頼んだ。』
彼は気が付いていたはずだった。僕が気が付いた時にはもういなかった。