現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「1983年の冬」


僕が23歳の時に車にはねられる事故に会った。その慰謝料のお金で僕は久し振りにニューヨークに行ける事になった。当時は今と違い、ニューヨークへの往復渡航費は安くても20万はかかり、まとまったお金がなければ中々行けなかった。僕は事故と慰謝料のおかげでニューヨークに行く事が出来た。 そして、僕はニューヨークの旧友に電話をしてみた。 中学3年以来会っていなかった。

“やあ、ビル、元気かね?中学の終わりに君から手紙をもらったけどね。返事をしなくて、ごめんね。” ビルは僕の中学校のクラスで一緒だった黒人の生徒だ。一緒に図書館に行って勉強したりしていた。彼の家族は前からアメリカ黒人独特のイスラム教を信じているのは知っていた。アメリカの黒人のイスラム教は中東のイスラム教とは関連がなく、アメリカの北部の社会で差別を感じている人たちに広がった新しい宗教だった。黒人たちのイスラム教では白人は悪魔だった。しかし、中学の時代ではアメリカ一般社会は人種差別が多いが、ビルは、色々な文化の人たちを受け入れた新しい社会を目指そう、と考えている真面目な男の子だった。 ビルは僕に話しかけた。
”何に?ユージか?一体どこにいっていたのかね?“
僕はニューヨーク時代、ユージと呼ばれていた。僕は答えた。
“あの時、日本に行って、ニューヨークに帰ってくるつもりだったが、帰ってこられなくなったんだ。ビルはどう?今何をしているの?”
“今は冬休みで家族の所に戻っているが、ワシントンで法律を勉強している。弁護士を目指しているのだ。”
“そうか。僕は音楽をやっている。今度エピック・ソニーがソロ・アルバムを出してくれるのだ。”
“へえー。いいじゃないの。ロック・スターかよ。”
“やあ、そんな事じゃないけどね。僕は今ニューエイジのアルバムを出した。エピック・ソニーではマイケル・ジャクソンのスリラーが今一番売れているけどね。”
“へえー。じゃ次はマイケルとユージというのを出せばいいじゃないか。そしたら売れるようになるぜ。”
“あのさ、今度、昔知っていた人たちとまた会ってみたいんだ。それで電話しているんだ。何人かと連絡取って見るから、会わないか?”
“いいよ。”
“誰かあの頃の人たちで連絡取っていた人はいる?”
“いや、いないね。何しろワシントンにいるからね。”
“でもビルは小学校から中学の終わりまで同じあの角の赤い学校に行っていたじゃない。”
“いや、時々、噂は聴くよ。でも高校からもう小学校の時の同級性たちはバラバラの所に行ったしね。”
“同級生のマイケルとかサラとかダ二—とかナオミとか知らない?マイケルが13歳になった時、彼のバーミッツファの祝で僕と君とダニーと三人で彼に『サーカス』というロック雑誌の講読を一年分買ってやったよね。覚えている?”

ビルは当時のことを良く覚えていた。
同級生のマイケルはユダヤ人だった。
ユダヤ教では13歳になると大人になったとされる。そして、ユダヤの寺院で古代ヘブライの儀式を行なう。ユダヤ教の人ではなくても、みんなユダヤ教の丸い帽子をかぶって、友達を祝いに行く。

当時のパーティーの事を思い出した。
ニューヨークのヴィレッジにある大きなホテルで中学の同級性同士で大きなパーティーがあった。そこでワインを飲んだら、僕は赤くなり、みんなにカニみたいに赤いと言われた。
サラは当時マイケルのガールフレンドで彼女もユダヤ人だった。2人とも同じ茶色の髪を肩まで伸ばしていた。ダニーもこのパーティーに来ていた。サラとダニーとビルはあのクラスでは幼稚園から一緒だったはずだ。ダニーの両親は二人ともロシアのウクライナからの移民だった。しかし、チリジリの茶色の髪をしていて、よくプエルト・リコ人と間違えられた。そして二人とも僕らが行っていた学校に勤めていた。母は小学四年生の先生。父は体操の先生だった。しかし、ダニーは言葉使いが悪いので有名だった。幼稚園の頃から“FUCK YOU”、”MOTHERFUCKER”とか“SHIT”と言っていた。親が学校の先生なのにどこでそんな言葉使いを習ったのかとみんなは噂していた。そんな彼の兄はロック・バンドをやっていた。ウッドストックも見に行っていた。ヒッピー世代だ。
ナオミはハーフ・ジャパニーズ、ハーフ・スコッティシュだった。色は白かったが、顔は日本人に近かった。彼女は長い黒髪で、いつも同じような服を着ていた。日本語はもしかすると僕より出来ていたかもしれないが、僕と日本語は話したがらなかった。ある日、彼女と彼女の母が話しているのを見たら、かなりうまい日本語を話しているように聴こえた。僕自身も母と日本語を少し使っていたが、”今日はlateまでworkingしているから“まるでこんな風に日本語の形の中に英語の単語を入れる事が多かった。僕の日本語は本当の日本語ではなかった。僕は学校で世界のリポートを書く時はナオミがいつも日本の事を担当していた。僕は中東を担当する事が多かった。僕も一度アジアを担当しようとした。そうすると、ナオミは一人だけでやりたいと言っているし、彼女の方がアジアの事を分かっていると先生に言われて、中東のイランやイラクの担当に戻された。なぜならば、僕の義父がイラン系アメリカ人であったから。もしかしたら彼女にとって、僕みたいなジャパニーズの出来損ないも彼女と同じジャパニーズである事が恥ずかしかったのかもしれない。

当時の話はさておいて、ビルとの会話は続く。
ビルは彼らの現状について話し出した。
“マイケルは親の仕事を手伝っている。家賃を払わない連中を強制的放り出す仕事をね。サラはダンスを勉強しにパリに行った。ナオミはあの夏にテキサスに行って、それからは知らない。ダニーはあの後ブルックリンの高校に行った。たまに、どこかで見かけた事はあった。レスターって言う奴いただろ?”
“ああ、いたね。”
“彼は死んだ。心臓麻痺だったかな?”
“太っていたね。それが原因になったのかな?”
“もしかするとね。それからジェシーは車の事故で死んだ。どこかへ移動中に車がトラックに衝突したらしい。もう大分前だけどね。”
“クリスティーはどうしたかな?中学とつながっている高校に行ったのじゃなかったかな?””
“ああ、でも彼女は何度もドラッグで捕まって、しまいに学校を退学させられたよ。”
“あの子はいつも僕が毎日ドラッグをやっているに違いないと学校で言っていた。“

“ライオネルはどうしているか分かる?”
僕はふとライオネルのことを思い出した。
ライオネルはニューヨークの黒人街、ハーレム、からわざわざヴィレッジの僕らの学校に通っていた黒人の男の子だった。よく冗談を言って、みんなを笑わせるのが好きだった。時々ふざけすぎて、“外に立ってろ“と先生に言われる事もあった。
“彼は高校の時に女の子を妊娠させて、学校をやめて、南部に行って警官になった。でも、こないだピストルで打たれて死んだんだ。” この言葉を聞いて僕は沈黙した。
僕は気を取り直しビルに問いかけた。
“これからダニーや何人かの同級生に電話してみるから、都合よかったら集まってみないか?”そして僕は電話を切った。

ピストルで撃たれて死んだライオネルのことを僕は良く覚えている。
ライオネルとは最後に会ったのはキャシーの家でみんなで一緒に大麻を吸った時だった。キャシーは同じクラスのユダヤ人の女の子だった。彼女は母と二人でワシントン・スクエア・パークのまん前の大きなアパートに住んでいた。彼女の母は撮影の仕事をしていた。彼女はよくマリファナを持っていた。いつも母に“ねえ、ママ、グラス(大麻の俗語)を学校に持っていっていい?”とねだっていた。彼女の家にはなんどか遊びに行っていた。中学の終わりには友達のダニーが彼女と付き合うようになっていた。彼女はギターをやっていた。学校の帰りもいつもギター・ケースを持っていた。クラスでギターをやっているのはまだ数人だった。キャシーの家に行くとジョニ・ミッチェル、クロズビー、スティルズ、ナッシュ・&ヤング、やデビッド・ボウイのレコードがあった。これがこの時代の僕らの世代を代表してくれる音楽だった。ライオネル、ダニー、サラ、マイケル、ウエンディー、みんなで絨毯の床に座り、マリファナを吸った。彼女やクラスの女の子たち、ウエンディーやサラは毛糸の刺繍に夢中だった。僕がギターを持って、アドリブを弾き始めると何人かが上手だねとほめてくれた。まだ、他の生徒たちはアドリブを弾いたりしていなかった。サラとマイケルは抱きついてキスをしていた。当時僕たちは13歳や14歳だったが、中学の終わりになるとお互いへの感じが変化していった。男であったり、女である事を意識するようになってくる。マリファナも自分たちにとってある役割をしていた。なんとなく、まだみんなシャイだった。マリファナをすって、音楽を聴いていると平和的な感じが漂ってくる。お互いがうちとけやすい感じになる。しかし、特に会話をするわけでない。音楽をかけて一緒にいる事を楽しむのだ。まだ、お互いの事は知らない。でも、面倒くさいこともまだない。これから変化が始まるだろう。でもまだ、みんなナイーヴだった。そこでこの中学の最後の時期は僕にとって最も楽しい時期だった。これからどう変わるのかなーといった時だった。

それから僕はダニーに電話をした。

ダニーは僕の中学時代の親友だった。
彼はロシアのウクライナ系の人でウクライナの民族舞踊なども習っていた。ウクライナにはまだ叔父さんが住んでいて、彼は当時ソビエト連邦だったウクライナにも遊びに行った事もあった。
彼の両親の友達の夫婦は1950年代にソ連のスパイとしてアメリカで死刑になった。それは後から間違いだったと判明した。当時は赤狩りがあって、ソ連から来た人たちはターゲットになる事も多かった。彼は人間はみんな暴力的な存在だと思って育ってきた。それを否定したり隠す人々に彼は強い疑問を感じていた。僕にとっても共産主義の世界の「働く者同士は仲良し」と言った理想主義的な考え方はあまりにも単純で“いい子ぶっている”ように見えていた。

ダニーは当時ブルース・リーに憧れていた。ヌンチャックも買っていた。他にもブラス・ナックルという4本の指にはまる武器なども買っていた。 ブルース・リーが流行った事によって東洋人のイメージがよくなっていた。それまでは中国人や日本人には洗濯屋さんかお手伝いのイメージの方が強かった。そこで初めてカッコイイ東洋人が出てきた。ブルース・リー自身もアメリカにいた頃は、なかなかそのまま東洋人として、テレビや映画に出演することはできなかった。『グリーン・ホーネット』と言うテレビ・ドラマではブルース・リーはマスクをかぶったままでしか登場していない。テレビ局は東洋人の顔は多くのアメリカ人にとって醜く見えると考えていた。皮膚の色だけではなく、目の形も変だ。顔の骨の形が変だと彼らは考えていたようだ。東洋人の中には目の形を手術で直そうとするとする人もいた。おまけに『グリーン・ホーネット』でのブルース・リーの役は「ケイトー」という名前になっている。これは日本人の名前“加藤”の発音を間違えたものだ。 ブルース・リーが流行った後でもアメリカの全国のテレビでは中々東洋人が出られなかった。カン・フーが流行ると『カン・フー』と言うテレビ・ドラマが出来た。しかし、主役はデビッド・キャラダインという全くの白人のアメリカ人が中国人のふりをして出ている。昔のアメリカ映画でもそういう事が多かった。東洋人の役の大部分は白人がやっている。しかもその東洋人は殆ど召使いかギャングか娼婦だ。 ダニーはそんなブルース・リーや『カン・フー』に憧れていた。
彼は体を鍛えていた。そして自分の力を自慢するのが好きだった。
『昨日歩いていたら、高校生の4人組が金よこせって言うからブラス・ナックルを取り出して、一番背の高い奴を血が出るまでぶちのめしてやったんだ。そしたらみんな逃げやがった。』
彼はある時、学校で僕にこう言った:
『オレ、昔、人を殺した事があるんだ。』
静かに彼はそう語った。
『嘘だ。信じられないよ。』
『いや、本当だ。10歳の時に山に行った時だ。嫌いな奴がちょうど崖に立っていたんだ。だから、押し倒したんだ。みんなに事故だって言った。調べれば記録に残っているよ。事故になっているから。』
『それはもう誰にも真相が分かりそうにないね。』
『でも本当なんだ。』
子供だと思って油断する事は出来ない。昔僕が小学生だった頃、こんな体験をした。何度もペンチみたいな道具が、ビルの上から、歩いている僕めがけて落ちてきたのだ。見上げると小学生の子が『はずした』と言っていた。ある時アパートの前に救急車が止まっていて、大勢の人たちがそのビルの上の方へ指を指していた。不運な人の頭に当たったのだ。大丈夫だっただろうか?


僕はダニーとハーフ・ブラックでハーフ・ジュイッシュ(ユダヤ人)のジェーソンと白人のデビッド・Bの4人で中学2年生の頃、いつも同じテーブルで座っていた。4人ともロックが好きだった。大人になると、ダニーはバッド・ブレインズという黒人のパンク・バンドのロード・マネージャーになってから、ラップのプロデューサーになった。ジェーソンは子供の頃からビッグ・バンド・ジャズのアレンジャー、ギル・エヴァンズと同じアパートで育って、彼の息子、マイルスと親しかった。大人になるとジャズ・ファンク・バンドを始めて、マイルス・エヴァンズとレコーディングしていた。僕も中学生の頃、彼の家に遊びに行くとギル・エヴァンズに挨拶していた。 デビッド・Bとは2人でこの頃イエスのライブをニューヨークのマデソン・スクエア・ガーデンに見に行った。彼はその後どうなったかは分からない。
ダニーと一緒にいるのは心強かった。一緒に歩いていて、変な奴が近寄ってくれば、彼は『オレの友達に何しょうてんだ』と言って、相手を怖がらせた。僕自身はスポーツはあまり好きではなかった。バスケット・ボールをやっていても、黒人やヒスパニックの自分より一つの頭分ぐらい背が高い男の子に自分の上からぴょんとボールを取ってしまう。
中学2年生の終わりの歴史のクラスのリポートは2人とも同じ本について書くことにした。まず、僕が読んでから彼に貸した。いくつかのトピックから僕らはヴェトナムの革命家、ホー・チ・ミンの詩集についてのリポートを書くことにした。僕は詩の表現を中心に描いた。彼は本をあまり読まずにホー・チ・ミンの革命家として人生を彼の意見で書いた。先生は僕にはVery Goodと書いて、彼にはDの成績を与えた。彼のリポートを僕は読んでいないが、社会主義について知っているはずだった。

先生達は基本的に左翼思想で学生運動をやっていた世代だった。僕らの歴史の先生は中国から直接毛沢東の本を輸入して、半年もかけて、文化革命時代に出版されていた毛沢東の歴史の本をクラスで読まされた。今でもその言葉を聴くと、言っている事に対して賛成してなくてもなんとなく懐かしい感じがする。そして、あの中学校のクラスの風景が思い浮かんでくる。

僕の音楽に出てくる中国的な部分は僕のこの時代へのノスタルジーも含んでいる。“アジア文化”に対する好奇心、憧れや文化的な研究ではない。僕の知っていたニューヨークのアジア文化の一部分だ。
クラスには3人中国人の女の子がいた。それぞれが違う文化を持っている人たちだった。香港に親戚がいながら、ニューヨークのダウンタウンで育ったアイシスはこの学校に幼稚園の時から来ていた。中学になるとギターを弾いていて、ジュディー・コリンズやジョニ・ミッチェルの曲を弾いていた。学校のタレント・ショーでクラスにいたマンディーと言うピアノを弾くユダヤ人の女の子と一緒に『青春の光と影』などを弾いて歌っていた。彼女は長い黒い髪をしていて、背が高かった。彼女のお父さんはよく学校にも来ていた。いつも白い中国の伝統的な服を着ていた。顔は魯迅の写真に似ていた。僕に会うといつも微笑んだ。ホアングは中華人民共和国からの最初の留学生だった。最初みんな男の子だと思ってしまった。凄くショートな髪の毛で当時の人民服を着ていた。1973年はニクソンが中国に行って外交に開いて後だったが、まだ中国内では文化革命が終わっていなかった。毎朝キャデラックで学校に国連の近くから来ていた。中国の当時プロパガンダの材料を学校にたくさん持って来ていた。東洋人と見ると華僑だと思って最初は微笑むが、後に彼女は僕とダニーは好きになれないはずだと思った。僕に対しては日中戦争の事をもっと知って欲しいと思っていたように見えた。ダニーは共産主義や人間性をたたえる考え方を皮肉に思っていた。後もう一人カレンという中国人の女の子がいた。彼女はアメリカの南部育ちだった。完全にアメリカの南部のナマリで話していた。クラスの男の子のレスターは彼女の南部ナマリを真似しながら、彼女をからかっていた。彼女はメガネをかけていて、髪の毛は肩まであって、いつも怒っている顔をしていた。多分南部では中国人だから他の東洋人と同じく『チンク、チンク』と呼ばれてバカにされていた雰囲気を持っていた。そして普通以上に自分のアメリカ人らしさを強調していた。(だから、ニューヨークのこのクラスでは逆にアメリカの南部の人としてからかわれていた。)彼女はホアングが学校に来た時に反発を感じていた。自分も彼女と同じように見られたくないと言う態度を取った。音楽のクラスではホアングの英語には中国ナマリが付くから歌うのを止めさせろとみんなに言っていた。この3人はお互いが違いすぎて、お互いが仲良くなかった。 僕自身はアイシスとは話す事は何度もあった。中学の卒業式の時は一緒にフィル・オックスの曲をクラスのみんなが歌う時ギターで一緒に伴奏した。フィル・オックスはたくさんのヴェトナム戦争に対する反戦歌を作った事で60年代に有名になった人だった。しかし、ヴェトナム戦争が終わって3年ぐらいたった後、フィル・オックスは売れなくなって自殺してしまった。
彼女はよく僕をからかうのが好きだった。ある時、公園からクラス全員で帰る時にいきなり僕の手をつかんだ。『これから一緒に手をつないで歩かないとダメよ。』僕が恥ずかしくなって、逃げ出しそうになると笑っていた。
ある時、学校の図書館にいるとダニーのプエルト・リコ人の友達、ラファエルがダニーに話していた。 『こないだ友達と映画を観にいったらさー、アイシスが彼女のお父さんと一緒に観に来ていたんだよ。そいで、オレの友達が彼女を見て興奮しちゃって困っちゃったんだ。ずうっと映画の最中さー、あのケツをぎゅうぎゅうもみたいて言ってんだよ。黙れよ、聴こえるじゃねーかと彼に言ったんだけどさ。止めないのさ。それでこないだアイシスに電話して、一緒に映画観に行かねーかって誘ったんだけどさ。お父さんと観るからいいて言うんだよ。じゃ、ご飯食べに出かけないかって誘ったんだけどさー、お父さんと出かけるからダメだって言うんだよ。何言ってもお父さんと一緒だからダメだと言うんだよ。』
ダニーはつまらなそうにすわって聴いていた。

この時もアイシスには電話をしていた。彼女のお兄さんが出てきた。『いや、昨日アリゾナに行ったばかりだから、ちょうど入れ違いだね。』とお兄さんは言っていた。
僕:『え?アリゾナ?』
『そう。針と中国の伝統的な医学を習いにね。』

“やあ、久し振りだ。本当にユージか?“彼はエモーショナルに僕を迎えてくれた。
“僕は今日本に住んでいて、この冬休みしかいないんだ。昔の同級性同士であつまりたいんだけど、どうかね?12月28日の夜だけど。今の所、ダン・ターブ、クリスティーンとビルは呼べた。後は中々ニューヨークにいないか、どこにいるのか分からなかった。“
“その日の夜は無理だね。午後なら少し寄れるけど。”
そんなに他の人たちに会いたくはないなと思っている感じは気が付いた。
“最近は何をやっているんだい?”
“ずうっと絵を書いている。飾ってくれそうなギャラリーを探しに行こうと思っているんだ、それで、作品の整理とフレームに入れるのをやっている。その日の夜も友達が整理するのを手伝いに来てくれるんだ。”
“へえ。見てみたいなー。絵をやっているって知らなかったけどね。中学に行っていた頃やっていた?”
“あの頃もスプレー・ガンでいつも地下鉄に落書きをしていた。その延長で描いているんだ。今、家で整理しているから、家にくれば見せてやるよ。”
“ロシア民族舞踊はどうした?”
“一度怪我してさ。もうあんな動きは出来なくなったね。”
“お兄さんは?”
“彼はジャンキーになってしまった。何度か治療を受けに病院に入れていたんだけどね、出て来てはすぐ元にもどっちゃうんだ。それでついこないだ、オレの実家に泥棒として入って、金を盗んだんだ。だからもうしょうがないと思って、警察を呼んで、逮捕してもらったんだ。自分の兄弟を入れるなんて、すごくいやだったけど、あそこまでいっちゃうともう他に考えられなかったんだ。”
彼は中学生の頃、お兄さんを誇りに思っていた。彼のお兄さんは高校の頃、ウッドストック・フェスティバルにはお客として行って、それからロック・バンドでリード・ギターをやっていた。彼はオールマン・ブラザーズのマネジャーとどこかで知り合って、いくつかのコンサートで前座のバンドとして出してくれるかもしれないと言う話を聴いていた。オールマン・ブラザーズとグレートフル・デッドとザ・バンドがニューヨークの郊外で大きなフェスティバルをやる時もお兄さんと一緒に見に行くという話も僕は覚えていた。
その後、思うようにいかなかったんだろう。そしてジャンキーになってしまっていた。
彼の家をたずねるとそこで見たのは落書きのような絵だった。ちょっとキース・へリングに近い部分もあったように僕は思ったが、大部分の絵は人間の暴力的な部分を描いていた。ある絵はクルー・クラクス・クラン(KKK)がリンチをしている絵だった。
彼の絵の整理を手伝っていた友達は別の学年で僕らの行っていた中学校に行っていた。
彼が話した:

『ホット・ツナが久し振りにコンサートをやるじゃない。70年代以来らしいぜ。見に行こうか?』
ホット・ツナは僕が小学校の時から好きだったジェファーソン・エアプレーンというバンドのギターとベースのデュオだった。僕はジェファーソン・エアプレーンも子供の頃見ていたし、ホット・ツナも2回は見ていた。彼らはアメリカの60年代のサイケデリック・シーンを代表するようなバンドだった。
ダニーは答えた:『そうだな。片付いたら、行こうか。』
ダニーは絵描きにはならなかった。黒人のパンク・バンド、バッド・ブレインズのロード・マネージャーをやってから、ラップのプロデューサーになった。

再会

12月の終わりだった。ニューヨークの空気は冷たかった。僕はその時イラン人の義父が80年代に持っていたアパートメントの部屋に泊まりに行っていた。ニューヨークのミッドタウンの金持ちが住むエリアにあった。セントラル・パークを面していた。朝、セントラル・パークを一人で散歩したら、黒人のホームレスぽく見える男がやって来て、“よおー、チノー、ハッパ買わないか?”と言って来た。(チノーは中国人の事。)僕は無視したまま歩いた。
僕のニューヨーク時代の同級性たちには母と義父が離婚していた事が言えなかった。最後に会った時から僕の家族といったものは複雑になりすぎていて、簡単に説明出来なかった。その上、当時、誰もその状態が幸せそうでもなかった。義父のマンスールはこう言っていた:『私の妻はロビン・マーチン(Robin)という人にロブ(Rob - 泥棒された)、でもマーチン・ノールスという男と戻ってきた。ラスト・ネームが同じファースト・ネームの別の男だった。』彼の父がイランで亡くなった遺産でアパートの部屋をいくつか買っていた。黒人の若い女の人のガールフレンドがいた。でも、彼も別の女の人とも付き合っていたし、彼女も何人も同時に付き合っていた。70年代の後半に向かって、家族という物が崩れ落ちていた家庭も少なくはなかった。僕もこわれた所に来たという感じがしていた。日本では誰ともコミュニケーションが通じなく、もうすでに内心完全に落ち込んでいたが、ニューヨークでもそこから抜け出るために期待出来る物もなかった。 しかし、昔の同級性に連絡して金持ちが住むミッドタウン・マンハッタンに会いにこないかというと、彼は金持ちに違いないと思われている感じが伝わった。本当は、当時、鎌倉の僕のおばあちゃんの家の六畳の部屋に置いてもらってそこの押入れで寝ているような人に全く見えなかった。また、全くの嘘の自分が出来た。エピック・ソニーでアルバムを出すと言う話をすると、言葉で人は面と向かって言わないが、コイツはきっといい目にあっているんだなと思っている感じが伝わって来る。それはそうとしても、普段のボロボロの自分を見せても何の意味もない。

この頃、次のアルバムとなった『サイレント・フィルム』の構想と曲が次々と出来た。『サイレント・フィルム』のジャケットの人物は嘘の自分で、仮面をかぶっている自分だ。ベルリンのドイツ人の行く幼稚園やスエーデンにいた子供の自分がいた。それから日本人の芸術家と会っている子供としての自分。ニューヨークの学校に行って、イラン人の義父と日本人の母を持つ自分。そして、日本の社会で映る自分はそれぞれ違う性格を持つ人物だった。しかし、過去に帰って見ようとして、過去は一度こわれてしまっている上、自分も説明できない状態に変わっている。目の前に仮面をかぶっている自分がいるが、この仮面の後ろにいる本当の自分を感じる事が出来るか?表面的にはシンプルな言葉を持つ普通のポップスの形を取っているが、よく見ると別の姿が後ろに隠されている。こういうアイディアから来ていた。

ダン・ターブが現れた。彼は僕のクラスでは優等生だった。彼も短編小説を書くのが好きだった。一緒に勉強したり、映画を見に行ったりしていた。 ドアを開けてまずびっくりした。長いヒゲを生やしたいかにもユダヤ人らしい人がそこに立っていた。 クリスティーンは小学3年生の時から色々なクラスで僕と一緒だったユダヤ人の女の子だった。長い茶色い髪の毛をしていて、中学にいた時、そのままの状態で背を高くした感じだった。スポーツの雑誌社に勤めながら、テレビ・ドラマの脚本を書こうとしていた。僕にも脚本を見てくれと言っていた。
そして、ビルが現れた。
『よー、ロック・スターはどこかね?』
レコード・プレヤ−で昔、僕が持っていたジョニ・ミッチェルのレコード、『Court and Spark』をかけた。このレコードはちょうど最後の中学生だった1974年にすごくはやったアルバムだった。まだ義父の家においてあった。 そして、昔の同級性たちが何人か集まってくれると、そこにはイラン人の義父と母が昔のようにいる。高そうなエリアにいる。そして、今度エピック・ソニーからデビューすると言っている僕がいる。何が問題なのか全く誰にも見えていない。 『こないだ、アイシスにも電話をしたんだ。どうもアリゾナに針と中国の伝統的な医学を習いに行ったらしいんだ。お兄さんが電話を出たんだ。』
クリスティーンは言った
『アイシスのお兄さんって見た事ある?ブルース・リーみたいな体しているよ。アイシスは高校の時にあたしと一緒のクラスだったけど、ヘンリーというユダヤ人に恋しちゃったんだ。でもヘンリーは凄い遊び人で他にも彼女がいて、アイシスはいつも悩んでいた。多分不幸せなんだと思うよ。』

みんな昔の中学生の頃に戻ったように話を始めた。これは奇妙だった。しかし、昔流行った音楽しかかけない僕の姿も彼らにとっては奇妙だったに違いない。
マーチン・スコセッシの1980年代映画『After Hours』で主人公がある女の人に助けられ、彼女のアパートに行くとそこには1960年代の物しか置いていない。サイケデリックな模様が液体の中で浮いている昔はやった飾り物。昔流行ったポスター。昔ヒッピー・ショップで売っていたデザインのコップ。『ねえ、これ聴かない?』と言って、ジョニ・ミッチェルの60年代の曲、『チェルシー・モーニング』をかける。主人公はこの人はどこか変だという顔をしている。しまいにこんな昔の物ばっかりの中で生きていてどうする?と言ったような事を言い出すと女の人は自分の生きている幻想がこわされたくないから暴れ出す。『出てってよ。出てってよ。もうこないでよ』と物を投げながらヒステリーを起こしてしまう。主人公が逃げていって、あそこに奇妙な女の人が住んでいると人に言うと、『ああ、彼女は1965年と言うあだ名でみんな呼んでいるさ』と言われる。 他の人たちはニューヨークとその周りでずうっと暮らして、その時代の変化も生きていた。もしそのまま、1975年の夏に起きた事がなかったら僕はどうなっていたかと思っていた。

1974から1975はいろんな事が終わった次期だった。

僕は気が付いた。21−22ぐらいのみんなはそれぞれが自分の人生で大変だった。僕にはせめてエピック・ソニーや他のレコード会社と契約を交わして、やっていけるかもしれないというチャンスがあった。そういう事はそうそうないものだ。僕の同級生たちはむしろ僕がうらやましいと思っていた。僕にはがんばって行くしかなかった。

Here We Go

列車の出る時間。
汽笛が鳴っている。
私の乗っているこの電車はいったい
どこに向かっているのだろう?

窓の外を眺めると
砂漠がどこまでもつづく。
星はらせんを描いている。
星とその影の間を縫って

映画のように置き去りにされた時間、
夢の中で見ていた記憶。
私たちを結ぶコップを未だに持っている。
何年も時の季節を回っていても。

空に輝く星、
らせんを描いて。
影と星の間を縫って、
私の愛していた故郷を去って行く。

過去の記録は
雲のように通り過ぎて行く。
子供が蝶々と遊んでいる時のように、
カゴに閉じ込める事は出来ない。

空に輝く星、
らせんを描いて。
私が好きだったあの時代も夜雲と共に、
遠く背後に離れて去ってゆく。


My School