コラム



「ジョニ・ミッチェルとデビッド・シルヴィアン」


ジョニ・ミッチェルは僕が一番影響受けたミュージシャンの一人だ。
彼女の音楽の魅力を3つの要素に分けて説明する事が出来る。まずはジョニのギター・スタイル。ハーモニー(和声)の使い方が独特だ。コードとしてはEm7sus4sus2など西洋音楽からするとテンションの多い不協和音か印象派の響きとして解釈する事が多いものが使われている。ジャズでもこのような和音は使うがジョニの和声進行はジャズのとは全く別の物だ。ジョニは中世ヨーロッパ音楽に基づくフォークから音楽を始めている。そのモードの響きがジョニの曲作りに影響している。1950年代にジョアン・ジルベルトが始めたギター・スタイルとも共通点はあるが、ジョニは50種類も違うギターの調律の仕方を自分で考えて使っている。EADGBEという普通の調律で弾く曲は少なく、CGBbEbFBbやCCEGCEなどを自分で作って使う。そうすると、弦の響きはゴッホの絵の色のようにカラフルになる。また、インドやペルシャの伝統音楽でも使われているような持続音な(ドローン)を響かせたまま進行するハーモニーが彼女のギター・スタイルに多い。ジョニは語っていた『絵をカンバスに書く時、まず真っ白のカンバスを全部オリーブ・グリーンに塗ってから、書くのと同じよ。』今でも僕はこういったギターの使い方も教えるギター教室をやっている(www.ayuo.net).
歌詞も重要だ。『ウッドストック』、『青春の光と影』、『サークル・ゲーム』を始め、常に僕の世代にとって代表的な言葉を書き続けてきた。時には『チャイニーズ・カフェ』のように頭の中でその詩の物語が映画ように浮かんで見えてくる歌も書いている。チャイニーズ・カフェとは10代の頃に友達とジュークボックスに流れるロックンロールを聴きに行ったカフェの名前だ。この曲は10代の頃にジョニがよく一緒に遊んでいた友達、キャロル、との会話から始まる。『キャロル、もう中年になってしまったね。あの頃はお互いワイルドだった。ロックンロールが生まれたばかりの時代だった。あなたの子供は“真面目”に育ってしまったし、私は自分の子供を育てる事が出来なかった。何も長く続かなかった。』こういう思い出話をしている最中に突然65年のヒット曲、『アンチェーンド・メロディー』に曲が変わってくる。これはジュークボックスでよく60年代に流れていた曲だ。その曲の歌詞は『時間はとても長く感じる』と反対の事を歌っている。それを聴いた瞬間、僕にとっては古い写真が思いがけない所から突然おちて来た時に鳥肌が立つような感動がした。これは映画で昔の場面が突然白黒で入ってくる使い方と非常に似ているが、それを音楽だけ成功した例は中々ない。
それからその言葉に付けるジョニのメロディーの付け方も大切だ。今年の6月に出たジョニのトリビュートCDに収録されているプリンスの歌う『ア・ケース・オブ・ユー』を初めて聴いた時ジョニと同じメロディーと歌詞を歌っているのに、まるで別の二ュアンスに言葉が響いたのを聴いてびっくりした。その言葉は次のとおりだった。『私は孤独な絵描き/絵の具の箱の中で生きている/君は私にある時言った「愛とは触れ合う魂」/それは本当だった/君の一部は私の中からこぼれ出ている/君は私の血の中に聖なるワインのように溶け込んでいる/その味は苦いと同時に甘い/そんな君を一箱飲める/それでもちゃんと両足で立っていられ』これをジョニが歌っていると魂に歌いかけている感じがしていた。プリンスが歌うR&Bの古い名曲を彼独特のセクシーの声で歌っているように聴こえる。しかも両方のヴァージョンも素晴らしい。

ジョニは最近語っていた『人類が未来に対して希望を持てたのは1960年代の私達の世代が最後ではないかな?まだ人間は社会を変える事が出来ると信じている人が多かった。今では未来に期待を抱く事自体がとても非現実的に見える時代だと思う。でも、それが非現実的であると知りながらもまだ期待を抱きたいと私は思っている。』63歳となって、9年ぶりに出た新作では崩れてゆく現代社会が抱えている色々な問題や環境問題をテーマにした曲が多い。
『もし一分間を60秒たっぷりの驚きと喜びで満たす事が出来れば/その時こそ地球とそこにある全てがあなたの物になるでしょう/でもそれ以上に私には分かる/あなたの人生は間違いのないものになると。』ジャングル・ブックなどの作者として知られるイギリスの詩人ラドヤード・キプリングのこのまるで仏教の言葉のような詩でこのCDは閉じる。
ジョニのCDは一つ一つが違う。だから、今回のCDも今までのCDとは違う。ジョニのCDは一つ一つが違う。5年前のセルフ・カヴァー・アルバムがオーケストラのアレンジでスケールの大きいものだったとすると、今回は逆に殆ど一人でローランドのVG(ミディ・ギター)にシンセの音源を使ったものやシンセやドラム・マシーンで録音している曲が前半に多い。しかし、80年代にトーマス・ドルビーと作った打ち込みの音とは対照的にシンプルだ。時にはデモ・テープのようにも感じる。
ジョニは以前に言っていた『私はギターをオーケストラのように聞こえている。下の三弦はコントラバス、チェロ、ヴィオラ。上の三弦は管楽器。』ミディ・ギターもその延長で弾いている感じが伝わってくる。タイトル曲『シャイン』でのジェームス・テイラーの生ギターとシンセの音の混ざり方はきらめく星のように美しい。
『イグアナの夜』はテネシー・ウイリアムズの同名小説を土台に書いたという曲。ストーリーではシャノン神父という性的な悩みを内面的に抱えている人物がいる。それがヒステリーとして表れてしまい、協会から放りだされてしまう。ツアー・バスの運転手として仕事をしているが、その悩みから解放されない。

『イグアナの夜』以後の後半の曲になってくるとブライアン・ブレイドのダイナミックなドラム、ラリー・クラインのベース、やジョニのリード・ギターも入って音楽的に盛り上がってゆく。これらの曲はこれからジョニの名曲となって行くだろう。ジョニのヴォーカルは昔よりもそのレンジは狭くなっているが、表現力は以前よりも深いものになっている。

ジョニの新作と合わせてハービー・ハンコックのジョニへのオマージュCDが発売された。このCDは60年代半ばのマイルス・ディビスのグループをモデルとした完全なアコースティック・ジャズのバンドで演奏されている。ウェイン・ショーター、デイヴ・ホランドといった元マイルスのバンド・メンバーに80年代のジョニのワールド・ツアーに参加していたヴィニ・かりウタがドラムスを叩いている。このCDのウェイン・ショーター、のスイート・バードでのサックスの演奏は感動的だった。ここでは音だけで詩の言葉の表現が出来ている。このCDではノラ・ジョーンズやティナ・ターナーも参加しているが、この人達のヴォーカルも楽器のように音楽アンサンブルに溶け込んでいる。

僕は以前にデビッド・シルヴィアンに影響うけたでしょうと何度か言われたことがあった。実際は影響を受けた事がない。
デビッド・シルヴィアンの最新作のCDは美術作品のサウンド・インスタレーション用の音楽だ。1960年代の現代音楽のテープ音楽を思い出してしまうような内容になっている。僕はすぐに武満徹の映画音楽『怪談』を思い出してしまった。このCDはアンビエントでもエレクトロニカでも音響派のものでもない。昔のテープ音楽の手作りのコラージュ感覚が残っている。最近CDとして発売されている秋山邦晴、湯浅譲二、一柳慧のテープ音楽などと一緒に並べて聴ける音楽になっている。
このCDは今まで僕が聴いたデビッド・シルヴィアンの作品の中でも最も印象的な作品になっている。新しいかと聞かれれば、新しいわけではない。女性の歌のピッチを変調した音、木の割れる音、カウ・ベルの音、アコーディオンの音、自然音モルス・コードを打つような電子音がコラージュされている。楽器らしい演奏はない。このような手法はヴァレーズ、クセナキス、シエフェールなどの作曲家たちが50年代から60年代に使ってきたものだ。しかし、よく作られている。一つ一つの音の響きが大切にされている。音をあまり重ねずに、シンプルにまとめている。

デビッド・シルヴィアンのユニット、Nine Horses、のサウンドの延長はむしろスティーヴ・ジャンセンの初めてのソロCDで聴ける。このCDにはテクノ、クール・ジャズ、サウンド・コラージュなどのスタイルをミックスした色々な曲が入っていて、一曲一曲が違うタイプの曲になっている。シンガーもデビッド・シルヴィアンを含めて、色々なシンガーが歌っている。
このCDを聴いていると80年代によく僕が訪ねていった友達のデザイナーの部屋を思い出してしまう。80年代に新しいと言われていた音の感覚やセンスを未だにもっている。今となれば懐かしいという気持ちになってくる。そして80年代というのは表面的な時代だったという事を思いだす。表面的なFuturismが流行った時代であった。
不思議とそれよりも古いスタイルで演奏しているハービー・ハンコックとノラ・ジョーンズ、あるいはハンコックのCDに収録されているレナード・コーエンの詩の朗読とハンコックのピアノ演奏の方が新しい音楽に聴こえてくる。ジョニやノラ・ジョーンズやレナード・コーエンの声には一つ一つの音が深くから響いてくる。

今の時代では“実験的”な作品とはアヴァンギャルド風な音が並ぶものではない。その人が今の時代に対して必要な表現を作り続ける事が常に新しい事を作り続ける事である。
寺山修司はかつて天井桟敷の劇場作品は一つの「事件」だと言っていたが、新しいCDという物も常に「事件」であって欲しいと僕は思う。
数年前にジョニがボブ・ディランとヴァン・モリソンの3人でアメリカ・ツアーを行った時、2人の男性アーティストたちは彼らの昔の曲を中心に演奏していたが、ジョニだけは常に新しい曲をやっていた。
アメリカではジョニ・ミッチェルの曲はディランの曲と共に全ての国民が聴いた事のある民謡になってしまっている。だからこそ、このような内容を持ったCDを作る意味があるのだ。