コラム



「ヤン・シュヴァンクマイエルの芸術とハイチのヴードゥー儀礼音楽を演奏するマカンダル」


この間、生命誌科学者の中村桂子さんと会った時、彼女は物理学やコスモロジーの最近の発展について話してくれた。宇宙物理学者、佐藤勝彦は10年も前からこう語っていた。私たちがこの見えていているこの世界は4%にすぎない。この世界を構成しているもののうち、私たちの体を作る元素などの普通の物質は、全体のわずか4%にすぎず、それ以外の22%は光や電波を発していないが重力を及ぼしている暗黒物質、そして74%はダークエネルギーからなっている。物質として引力を持つのではなく、斥力の効果を宇宙に及ぼしていると考えられるダークエネルギー。最近アメリカのNASAでもこれが証明されてきた。
これはとんでもない発見だ。
私たちの見えない世界が世界のトップの科学者によってどのように存在しているか証明されてくると私たちは世界についても自分たちについても生命そのものに対しても見方を変えなければいけなくなる。
こうした情報は一般的には伝わりにくい。

チェコのシュールレアリスト、映画監督で美術家のヤン・シュヴァンクマイエルはこう言っていた。『私たちの視覚は、かつてないくらい台無しにされている。消費文化はテレビやコマーシャル映画や広告をつかって私たちの視力を低下させている。 私たちの感覚のどれかが芸術の問題領域に結びつく時には、いつでもある特定の感覚、ないしはその本質的能力が実利的機能から解放されて、そこに好ましい状況がもたらせているにちがいない。』 『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』というドキュメント映画でシュヴァンクマイエルは語る。『わが国では毎週土曜日の夜にポルノをテレビで放映している。こういうものによって、私たちの性にたいする感覚が無理に変化させられてしまった。』この映画でシュヴァンクマイエルの創ったブラック・ユーモアたっぷりのオブジェが映る。男の人がテレビの前でしばられている。テレビには女の人が『あー、あー』とオルガスムの時の声を出している。男は女の人の出すあーと言う声に合わせて機械によって首をふらされている。これをギャラリーで見にきたお客さんたちが笑っている。メディアにおけるセックスの使い方とそれによって暗示されたようにコントロールされてしまう男の人をブラック・ユーモアたっぷりで見せている。シュヴァンクマイエルは見ている人をエロティックに感じさせるのではなく、そのあり方について考えさせる。 かつて古来のシャーマンや巫女が行なっていたこの世と宇宙をつなげる祭典では人間の感覚を揺れ動かすようなパフォーマンスがなされていた。ハイチのヴードゥーで伝統的に行なってきた鶏の生け贄を私たちが見ると、私たちの感覚そのものを刺激する。 シュヴァンクマイエルは彼の映画『悦楽共犯者』でも最新作『ルナシー』でもハイチのヴードゥー・セレモニーからの鶏の生け贄のイメージを意識的に使っている。『悦楽共犯者』ではヌード写真をコラージュした鶏の仮面を淡々と作って、かぶり、鶏料理を共食いする。『ルナシー』では精神病院中に鶏が飛んでいて、その周りに枕を破いて鶏の羽を撒き散らしている患者さんたちがいる。本物の神病院の院長は鶏の羽を、タールをのりにして塗りつけられたまま、地下室に閉じ込められている。アニメーションで鶏がちぎられてスーパーで売られている肉になってしまうシーンが映画ストリーの間に映る。

最新作『ルナシー』はアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの短編小説、『タール博士とフェザー教授の療法』の映画化だ。シュヴァンクマイエルは以前にもよくポーの原作を使っていいて、ポーについてこう語っている。

「ポーの病的な物語をとおして彼が行なう心理研究では、触覚がどれほど大きな役目をしているかが分かりました。実生活ではほとんど意識すること感覚であっても、心的な緊張やストレスの状態では非常に敏感になりますが、ポーはこのことを意識していたので、彼の短編小節には触覚の描写が詰め込まれているのです。自分の身体で直接体験はしていませんが、触覚的想像力はこういった感覚をかなり徹底的に変容させることができる。」」シュヴァンクマイエルにとってシュールレアリスムは単に芸術ではない。「シュールレアリスムは錬金術や精神分析と同じように、魂の深みへの旅なのです」と言う。錬金術とはヨーロッパの中世時代の科学で、化学変化はそれを行なう人間の精神状態の変化と共に起きるものとして研究していた。「錬金術と同様に、私は極度に敏感な状態において人々が触れる物たちのなかに起こる、特定の内容の『保存』も信じています。『感情』が込められるとと、物はこういった内容をしめす事のできる特殊な状態となり、触られた時に、私たちの無意識のひらめきに連想や類推をもたらしてくれるのです。」

私たちは今、世界中の音楽や神話が簡単に手に入る時代にいる。かつて、人があまり旅行ができなかった時代には、その地域内で人々が音楽的にも精神的にも要求する全てが行なわなければならなかった。今世界中の伝統音楽を見るとその自然環境的な違い、温度や気候の違い、楽器を作る素材の違いは出てくるが、目指している事には人類全体に相当の共通点があったことが見えてくる。 7月14日にハイチのヴードゥー儀礼音楽をやるためにマカンダルというグループが来日していた。僕はこのショーを見に行き、後でリーダーのフリスナー・オーグスチンと話をした。
草月ホールのステージの真ん中には大きな木の模型があった。木の周りは蛇が巻きついていた。その木は宇宙を表わしている。その蛇の姿はダンバラというポジティヴな力を持つ知識と幸福の精霊を表わしている。木の下にはこの世とあの世の交差点を表わすシンボルが描かれている。ステージの右側には3人のパーカッショニストがリズムを叩いていた。バス・ドラムはラテンやサルサにおけるベース・ラインに近いパートを叩いていた。その隣りにはブラというラテンではティンバレスがやるような高いパートを叩く人がいた。その隣りはセコンデというパートを、丸っこいバチで叩く人がいた。リーダーのオーグスチンはママンというパートをやっていた。ママンとはダンサーも音楽家もリードするパートだ。

ヴードゥーではそのアフリカのドラムそのものに精霊を動かす力があり、ドラマーが動かしているではないとされている。ドラマー自身もスピリットに動かされている存在なのだ。
ヴードゥー儀礼音楽で使われるビートはジャズでもラテン音楽でも使われているので、私たちにとってはなじみぶかいリズムだ。 そのポリ・リズムで繰り返されるビートには催眠的な力がある。それはミニマル・ミュージックの作曲家スティーヴ・ライヒのピアノ・フェイズを初めて聴いた時に感じだ。催眠的な力も持つビートには世界中のどこから来たものであっても、共通に感じさせるものがある。トルコのスーフィー教ので回りながら踊る音楽も、ベリー・ダンスのアユブと呼ばれる少しづつ早くなる音楽でも似たビートを叩く。これら全てはトランス状態に人々をみちびいてゆくのが目的だった。
しかし、常に人々をトランス状態に持っていけるのだろうか?
7月14日の草月ホールにおけるマカンダルの演奏ではステージ上でトランス状態に入って、ケイレンして倒れるダンサーたちが見いた。一人のダンサーはケイレンしてから、舌を切られた女性のゲリラ戦士エジリ・ダントの霊が乗り移った役を演じる儀式をやった。"ケ、ケ、ケ"と言いながらハーブの入った水のバケツを彼女の前に置いて、前の方に座っていた人たちを一人づつその前に呼んで手で水をかける儀式だ。エジリ・ダントはハイチの革命のために戦った戦士で、敵に舌を切られたために言葉をしゃべらない。水をかける儀式は幸運をもたらす儀式となっている。僕もステージに呼ばれて、参加した。トランスしていながらも、そのダンサーの意識はハッキリとしていた。 後でオーグスチンは今日は本物のスピリットが存在していたと言っていた。では本物のスピリットが存在しないショーというのもあるのだろうか?そういう時はヴードゥーがどんなものであるかと言うデモンストレーションのショーになるであろうと僕は思った。 ハイチのヴードゥーと一言で表わしても、ハイチではそのグループによって少しづつ違う事を信じ、違う遣り方を取っているらしい。アフリカのナイジェリアからコンゴの地域の様々な国からどういった神話をどのように取り込んだかが違うらしい。一つの方法にまとめられてはいない。それぞれのリズムはそれぞれの精霊を呼び込むために伝統的に伝えられている。エジリ・ダントの精霊を呼び込むリズムもあれば、ダンバラの精霊を呼び込むリズムがある。研究者が書くヴードゥーというのはたいてい首都、ポルトープランスの大きなグループがやっている方法だ。 繰りかされる催眠的リズムでトランス状態にみちびいて、暗示をかける儀式というのは世界中に古来様々な形で存在していた。霊的な力を持つ時とそうではない時がありえるのは事実だ。

今私たちにとっては新しい『神話』が必要な時代であろう。それは神秘主義からくるものではなく、科学的に証明されるものから広がってゆくだろう。一つの方法論ではなく、自分のニーズに合わせてアレンジしてゆく事になるだろう。 『生命とは何か?』という本を発表した、生命科学者リン・マーグリスはシュールレアリスムから発展した2人の芸術家、ジョルジュ・バタイユとアントナン・アルトーの作品を度々彼女の科学の本に取り上げている。新しい時代にとっては新しい表現法が必要であり、 シュヴァンクマイエルも一つの方法を見せていて、僕もまた別の方法で新しい神話を表現してゆこうと思っている。